武官、秋の森を歩く


 暮れゆく空を見上げ、名前は目を細めた。

「もうすっかり日が落ちるのも早くなりましたね」

 空を切る乾いた風。硝子のように澄み渡る空。踏みしめた地面は落ち葉で彩られ、名前が歩くたびに軽快な音を立てる。晩秋の刹那的な日差しは、だからこそ鮮烈なまでに眩しく、橙色の焔となって降り注いでいた。

「じき冬になるからなぁ……ほんとあっという間さ」

「ええ……」

 それは誰にとっても等しく、隣を歩く天化の瞳もちらちらと燃えていて。角度によっては鼈甲の装いを見せるそれに、名前は暫し目を奪われた。
 しかし彼に「どうしたさ?」と覗き込まれ、慌てて首を振る。危ない危ない。いつもの抜けるような蒼い瞳にようやく慣れてきたからといって油断は禁物……心を強く持たなければ。大体今は燃料に使う枯れ木を探しに来たというのに……。
 いくら彼に誘われたからといっても……そしてそんな彼の瞳を炎のようと例えたからといっても、名前自身まで逆上せあがるわけにはいかない。今はそう、戦の最中で、メンチ県ももう目と鼻の先といったところなのだから。
 そのためには腑抜けた顔などしていられない。それも憧れの人の前ならば特に。

「いえ、本当に月日が流れるのは早いものだと思いまして」

 そう一瞬の間に思いを巡らせ、名前は素知らぬ顔で答えた。答えてから、本当にそうだと痛感した。
 それは彼にとっても同じだったらしく。
 天化は「……そうさね」と、感慨深げに呟いた。噛み締めるように、思いを馳せるように。そうしてから、名前に視線を移した。

「出会ったのも、ずいぶん前のことになるんだな。こうしてるのが当たり前になるのも当然さ」

 緩められた瞳。その奥で揺らめく灯火。それは闇夜を照らす燭火のように小さく、けれど確かに輝いていた。
 その目に見つめられるのは気恥ずかしくもあり、擽ったくもあり。名前は咄嗟に目を落とし、相槌を打った。
 かさりかさりと鳴る木葉すら心音に重なり、鼓動を早めていく。せっかく視線を逸らしたというのに、黄色の絨毯からも彼の眼差しを想起してしまう。
 しかし不快だとは思わなかった。厭うことも、煩わしく感じることも。胸を締め付ける感覚すら甘美なもので、名前は心地いいとさえ思った。
 そう、彼の隣を歩くのは心地がいい。だからきっと、名前はーー。

「……でも、それももう終わりなのですよね」

 ぱきり、と足許で音がする。枯れ枝の割れる音が。
 それは薄氷に罅が入ったような音だった。その鋭さは冬の朝に似ていて、耳にした瞬間、名前はハッと我に返り立ち止まった。そうしてから、己が口にした言葉を自覚した。口にしたのがひどく空虚で寒々しい、力ないものであったことを知覚した。

「あ、あの……っ!」

 舌が絡まる。空気が喉を切る。真っ白な頭では命令を下すこともできず、焦る体は空回りするばかりで。

「こう思うのは不謹慎だとはわかっているのですけど……!でも、その、この旅があまりに居心地がよくて……ですから、わたしは、」

 見開かれた目。驚きに彩られ、虚を突かれたと如実にわかる表情に、なおのこと名前の心は狼狽える。

「わたし、は、」

 狼狽え、そしてーー。

「……寂しい、と」

 一番にある思いを声に出していた。
 何も考えられなかったから。だから名前は嘘偽りない、まっさらな心を露にしてしまった。ただ心のままに言葉にしていた。
 ーー今が永遠に続いたなら。
 それは叶うことのない願いであり、叶えてはいけない望みでもある。天命は従うべきものであり、天意は覆してはならないのだから。
 だからこれは口にしてはならないことだった。

「……ごめんなさい、忘れてください」

 名前はぎこちなく笑い、俯いた。それが名前にできる精一杯だった。平然とした顔で歩みを再開することまではできそうになかった。
 失言だった。死んでいった仲間のためにも言ってはいけないことだった。主のために、そして民のために必要な結末から目を背けた、最低な発言だった。忘れてほしいというのもまた名前にとって心からの願いだった。
 ーーけれど。

「……名前、」

 他でもない、彼が。
 天化の声が俯いた名前の頭に降ってくる。木葉よりも穏やかに、けれど鮮明に。名前の耳朶を擽り、染み渡っていった。
 それを体現するかのように手が伸ばされる。視界の隅、武骨な指先が、名前に、

「……っ!」

 その影を認めた名前は咄嗟に身を引いた。たぶん恐れから、本能的に。彼の指先が冷えきっていたらどうしようと恐れ、逃避を企てた。

「……えっ?」

 のだけれど、名前の動きはすぐに封じられた。ただし彼に、ではない。見えない力によって名前の体は身動きを取れなくされた。見えない何か……そう、後頭部を引っ張る何かによって。

「あっ、あんま動かねぇ方がいいさ」

「で、ですが……!」

 目を逸らしていたことも忘れ、名前の目は天化に縋る。
 彼は極めて冷静だった。ひとり狼狽える名前が馬鹿に見えるほど。彼は「じっとしてろよ」と名前の耳許で囁き、そっと手を伸ばした。
 掠める指先。漂う体温。ぎゅっと目を閉じた名前には彼の行動がわからない。ただ鋭敏になった聴覚だけでその存在を追いかける。
 彼の手は繊細な動きで名前の髪に触れた。そこに感覚はないはずなのだけれど、この時なぜだか名前にはわかった。彼の指がそれを解き、優しく撫でつけるのが。

「……ほら、取れた」

 笑みを含んだ声に、恐る恐る目を開ける。
 闇に呑まれた意識には眩しすぎる微笑。しかしそれが不思議と心地よかった。荒野に咲くオアシスのように。その顔を目にした瞬間、名前は何もかもを忘れてしまった。意識はすべて塗り替えられ、彼しか見えなくなった。
 そんな名前に、天化はふと笑みかける。

「……俺っちもおんなじさ」

 子供のようにくしゃりと頬を緩めた笑顔。陽の光ではない朱色に染まる目許。照れくさそうに笑ったまま、彼は名前の手を取った。

「みんなと旅すんのも、……こうして名前と歩くのも。楽しいって、そう思っちまう」

「天化どの、」

「ま、ここに親父や……家族がいたらもっと最高なんだけどな」

 天化は一瞬、寂しげに視線を流した。何かを追いかけるように。
 そうしてから、また名前を見た。今度は笑みのない、真剣な眼差しで。
 刹那、時が止まったような気がした。爽やかな風の音も木葉の囀りも遠退き、降り注ぐ光すらも名前には遠い風景のように思えた。

「伝えたいことがある。すべてが終わったら、名前に」

 握られた手が熱い。射抜かれた瞳が痛い。ーー囚われた心が、息苦しい。
 彼の大きな両の手に包み込まれた名前は、身動ぐことすらできなかった。息の仕方も心臓を動かすことも忘れ、名前は天化を見上げていた。
 ーーそれでも、想いは止められない。

「わたしも、お伝えしたいことがあります」

 すべてが終わったら、伝えたい。
 救われていたと。あなたがいたからわたしは歩みを止めずに済んだのだと。
 ーー何よりもあなたがいとおしいと。
 そう、伝えたいと思った。