武官、メンチ城に辿り着く


 先鋒からメンチ県に至ったと報告を受けてからおよそ六ヶ月あと。
 周の本隊はメンチ城前に陣営を築いていた。

「とうとうここまで来たか……」

 小高い山を背に聳え立つメンチ城を臨み、姫発は呟く。感慨深そうに息を吐いて。
 それに名前は頷きでもってもって同意を示した。本当にーーここまで辿り着くのに随分と長い時間がかかってしまった。だがこの要塞都市さえ落とせば朝歌はもう目の前だ。
 しかし油断は禁物。何せメンチ城の主はあの聞仲の右腕であった張奎という仙道なのだから。
 今一度気を引き締めねばと、そう名前は唇を結んだのだけれど。

「なぁに問題ありませんよ!いかな術を使おうともこの俺が倒してみせましょう!!」

 そう言ったのは姫発の斜め後方、周の大将軍南宮括ーーつまり名前の父であった。楽天的なきらいのある彼は豪快に笑ってのける。が、心配性が過ぎると言われる名前としては、いくら父の言とはいえ素直に受け入れられやしない。

「父上、そう大きなことは申さぬ方が……。それに仙道には仙道を、というのが楊ゼンさんの方針でしょう?」

 張奎という仙道に関する情報は少ない。というのも、留守がちだった聞仲の代わりに内政を取り仕切っていたのが彼らしいのだ。お陰でその顔すら外の者にはあまり知られていない。
 だが仙道は仙道。一騎当千の力を持つのだから、ただの人間である名前たちには太刀打ちができない。
 それに聞仲は仙道の戦いに人を巻き込むことをよしとしていなかった。そんな男の元で忠誠を誓っていたのだ。張奎もまたその気高い思想を継いでいる可能性が高い、と楊ゼンは睨んでいた。
 それを楊ゼン本人から聞いていた名前は、仙道の抜けた後残る武王たちを護るようにと使命を受けていた。だから父を諌めないことにはどうしようもなかったのだ。

「そう言うお前はあの道士に感化されすぎだ!まさかあの噂のようにお前……、」

「父上」

 だというのに父ときたら。
 名前の言葉に怒ったかと思うと、今度はさぁっと青ざめた。しかもその口から飛び出したのは西岐を発つ前に女官たちの間でまことしやかに囁かれていた作り話で。
 名前は思わず冷ややかな声音で父を呼んでしまった。途端、彼は続く言葉を呑み込み、しかし何事か言いたげに名前を見つめた。
 だから名前は溜め息を吐き、渋々口を開く。

「楊ゼンさんは賢明な方です。仙道であるとかないとか……そういうことを抜きにしてもなお彼に従うのが最善だとわたしは思います」

「しかし名前……」

「まぁまぁまぁまぁ!」

 一歩も引く構えを見せない名前と、食い下がろうとする南宮括。そんな二人を取り成すように声を上げたのは姫発だった。
 彼は名前と南宮括の背を思いきり叩いて、続ける。

「とりあえず兵のことは南宮括に任せっから!ほら、名前はこっち来い!」

「武王さま……!?」

 ぐい、と引かれる腕。旅の間に逞しくなった姫発の手に引かれ、名前は父から引き剥がされる。
 なんという力業。しかし無理矢理にでも距離を取らされない限りあの問答は続いていたろう。そう考えれば姫発の行動は正しいものだ。

「すみません、お手数をおかけして……止めてくださってありがとうございます」

 引き摺られる間に冷静になった名前は、立ち止まった姫発に頭を下げていた。それを彼は「気にすんな」と鷹揚に笑う。

「戦の前でピリピリしてんだろ?お前は昔っから心配性だからな」

「返す言葉もありません……」

 そんな彼は随分と大人になった。かつては名前が姉のように彼に諫言していたというのに、今ではもう面影しか残っていない。

「けど、お前が気にすんのもわかるぜ。……あの城、様子がおかしいもんな」

 おまけに戦事にまで気が回るようになるとは。
 声を落とし、名前の耳許でーー名前にだけ聞こえるように囁かれた言葉。間近にあるからこそ名前にはわかる彼の表情の強ばり。懸念に彩られた瞳は、しかし不安に揺れることはなかった。
 ーーなんと心強い主だろうか。
 内心の感嘆を隠し、名前はそっと顎を引いた。

「ええ。……何らかの罠が仕掛けられているのかもしれません」

「……やっぱりか」

 先鋒がメンチ県に着いたのは六ヶ月前。その間城主がこちらの動向を知らないはずがない。
 にも関わらず、防衛施設である城壁には人の影すら見られなかった。
 『正正の旗を要うることなく、堂堂の陣を撃つことなし』と言うように、戦の前には双方の隊列は整然と並び、相対するのが常である。だがメンチ城にはその気配がない。
 ならば防衛戦に持ち込むつもりなのかと思えば、しかしそれも道理に合わないから不思議なのだ。
 通常防衛戦では城壁が中心となる。攻城兵は衝車で門扉を壊したり、雲梯で城壁を登ったりして城壁突破を目指す。そして城を守る者はそれらを倒すことを第一とする。城壁の上から連挺や夜叉擂を落として兵を負傷させるのだ。剥き出しの鉄釘が打たれたこれらは、直撃すると身体中穴だらけになる。故に攻城側としては恐ろしい武器であった。
 のだけれど、その様子もメンチ城には見られない。女墻にも馬面にも……どこにも兵がいないというのは異常としか思えなかった。
 考えられるとすれば城主が仙道との戦いだけを望み、それを暗に伝えるべく兵を退かせたのではないかというものだが……。

「どうすりゃいいと思う?」

 名前には確実なことは言えない。証拠のない予想は状況の悪化を招く恐れがある。
 だから名前は自身だけの想像は胸に秘めておくことにした。武王にも、もちろん将軍である父にも。

「楊ゼンさんに指示を仰ぎましょう。恐らくは仙道同士の戦いになるかと思いますが」

 そんな名前に言えることはただひとつ。
 信頼する軍師代行の名を出し、その背に視線を流した。
 周の軍師代行、楊ゼン。隊列の最前にいる彼の顔はここからでは見えない。しかしその真っ直ぐ伸びた背や凛とした佇まいは、名前に安寧をもたらしてくれていた。

「なら兵は待機ってことか」

 自身に倣って目を馳せた姫発に視線を戻し、名前は「はい」と頷いた。

「しかし気を緩めてはなりません。その間に殷の軍勢が攻めてこないとも限らぬのですから」

「だな」

 そう答えた後で、姫発はにっと口角を上げる。
 それまでの固い表情が嘘のような朗らかな笑み。それは間違いなく兵の心を解きほぐす効果のあるもので。

「とりあえず楊ゼンに聞いてくるわ」

「お願いします」

 立ち去る背を追いかけながら、名前はほっと息を吐いたのだった。