蓮華の花言葉

 ソレは嫉妬だと園子は言った。

「好きな男が他の女といるとムカつくわけでしょ」

 そんなの嫉妬に決まってるわ、と訳知り顔。そのまま腕を組んでうんうんと頷いている。
 「"ムカつく"、とはまた違うような……」名前は困惑した。それではずいぶんと乱暴な感情を持っているみたいだ。
 しかしこの抗議は歯牙にもかけられず。

「ムカつくのが当たり前なの!」

 と言い切られてしまう。隣に座る蘭も「そうよ」と拳を握った。「新一ったらいつもいつも……」吐き出される恨み言。彼女にも身に覚えがあるらしい。
 それならば。

「嫉妬とは普通のものなのでしょうか?」

 物語では暗く汚れたものとして扱われるそれ。でも"当たり前"だと園子も蘭も言う。だったら名前も当たり前に抱いているのかもしれない。自分では、そうとは知らなかっただけで。

「普通よ普通、当然でしょ」

「もやもやしていやな感じがするんだよね、やっぱり嫉妬だと私も思うな」

 二人が言うと説得力が違う。
 「なるほど……」名前はジェラートを片手に考える。この甘味のように居心地のいい思いだけが透への"好き"だと思っていた。でも"好き"はもっと楽しくないものなのかもしれない。それはとても悲しいことだけれど。

「嫌なら嫌ってはっきり言うべきよ!」

「でも、迷惑はかけたくないんです」

「迷惑なんてかけてなんぼじゃない」

 女子高生3人、"恋"の話で盛り上がる。ピンクを基調としたカフェ、可愛らしい調度品の中ではお似合いの話題。手には甘やかなジェラート。これは当初ベルモットが計画した通りの展開である。想定外なのは、名前の感情だけ。いや、まだ名前としてはこれが"恋"とは納得がいっていないが。しかし大先輩二人に「それ以外ありえない」と言われると受け入れるより他ない。

「そもそも彼に恋することすらおこがましいというのに……」

 名前と透。その間に流れるものを考えると、美味しいはずのフローズンヨーグルトが苦く感じられる。
 俯く名前に、二人は顔を見合わせた。彼女らは名前の素性を知らない。けれど何かを感じ取ったらしい。
 そっと、名前の手に温かなそれが重ねられる。柔らかな、女の子のぬくもり。「好きになるのは自由だよ」顔をあげると、何もかもを理解しているような穏やかな微笑があった。

「でも嬉しいな、名前ちゃんがこんな話してくれるなんて」

「そうねぇ」

 名前は目を瞬かせた。「嬉しい、ですか」よくわからない感想だ。今の話のどこに喜ぶポイントがあったろう。
 不思議がる名前に、園子は呆れた。「わかんないの?」素直に首肯しておく。と、はぁ、と長い溜め息を吐かれた。
 対する蘭は、簡単に答えを教えてくれた。

「それだけ仲良くなれたってことでしょう?」

 それは名前には眩しすぎる答えだった。



 近頃の透は物思いに耽ることが多くなった。原因は――はっきりしている。
 怪我はすっかり治った名前ではあるが、胸中にはいまだ痼のようなものが残る。赤井秀一。かつて共に生き、殺し合うようになった男。彼はどうしてあの場にいたのだろう。どうやって、生き長らえたのだろう。そんなことを透もきっと考えているのだ。
 となると邪魔をするわけにはいかない。名前は手にしたトレイと透を見やった。トレイには蒸らしたティーポットと空のカップが2つ乗っている。どちらも名前が用意したものだ。
 でも、ソファに座る透は考え事をしているときのポーズをとっている。股の上に両肘を置いて、その手の甲に顎を乗せて。パソコンの画面に視線を注いでいる。そこに映るのはベルモットから渡された資料だろう。名前は許可を出されていないからその内容については知るよしもないが。今の透の頭が赤井秀一でいっぱいなのだけは分かった。
 さて。どうしたものか。一人で飲むのは悪いことをしている気分になるし、かといって空気を読まずに差し出すこともできず。名前は両手を塞げたまま、至極小さな問題に思い悩んでいた。
 が、そんなことすら透にはお見通しらしく。

「そんなに見つめられたら穴が開くよ」

 くすくすと、笑い声。姿勢は変わってないのに、透は手の中で笑いを殺していた。しかし殺しきれなかった微かな音が彼の指の間から漏れ出ていたし、震える肩は隠そうともしていない。

「……ほら、おいで」

 両手を伸べられ、名前はふらふらと歩み寄る。蘭に誘われた蜂のように。本能のごとく吸い寄せられていった。
 「平気なの?」定位置に腰を下ろしてからそろそろと訊ねる。邪魔ではないか、迷惑ではないか、と。
 すると透はパソコンを閉じた。

「名前のお茶を飲む以外に優先すべきことがあるかい」

 ゆったりとした笑みには余裕が感じられた。赤井秀一を追う。そう聞いたときにはハラハラしたものだったが、さすがに気にしすぎだったらしい。透は名前が思うよりずっと大人だった。
 彼はそっとカップをとり、まずその香りを楽しんだ。下ろされた瞼。長い睫毛が影を作っている。
 「この匂いはルイボスかな」それにこの爽やかな香りはレモングラスだろう。蓮華草のカップ越しに問われる。

「当たり。オレンジを付け加えたものがあったから、それにレモングラスとレモンバーベラを混ぜたの。飲みやすい方が私は好きだから」

 本当は、それだけではないのだけれど。
 ルイボスの効能――リラックス効果がある――についてはあえて口にはしなかった。そういうのは恩着せがましいように思えたのだ。ただの自己満足に透を巻き込みたくなかった。
 名前は彼と揃いのカップに口をつけた。癖のあるルイボスだが、加えられた柑橘系の風味ですっきりとした味わいに仕上がっていた。さらりと喉を通る清々しさ。悪くないのでは、と自画自賛したくなる。もっとも、透の淹れたものには遠く及ばないのだが。

「今日はどうだった?」

 透にそう問われる。毛利蘭と鈴木園子。二人に誘われて出掛けたことを指しているのだとすぐに分かった。二人から連絡が来たとき、透は我がことのように嬉しそうにしていたから。
 でも彼の期待には添えそうにない。「特にめぼしい情報は」名前は目を伏せた。何も知らない二人からは決定打となる情報は得られそうにない。……というより、今日は名前の話ばかりが中心となってしまって、江戸川少年の話といえば先日テレビ局で起きた事件で世良真純と仲良く解決に勤しんでいた件くらいであった。帰宅してから名前は頭を抱えたものだ。自分はいったい何をやっているのかと。高校生を満喫してどうするのだと。
 しかし透は落胆を見せなかった。「そうじゃなくて、」くすりと笑みを漏らして、名前の髪を一房手に取る。神経が通っていないはずなのにどきりと脈打つ心臓。彼に触れられたところだけ自分から切り離されてしまったみたいだ。

「楽しかったかって聞いてるんだよ」

 流したままの髪を耳にかけられる。そうされると遮るものがなくなって、まともに彼の視線を浴びることとなってしまう。ただ、それだけ。それだけなのに、名前の頬は熱くなる。
 「うん……」消え入りそうな声。それは自分の声ではないようだった。
 おずおずと見上げると、透の蒼い目とかち合う。やさしい光をたたえた瞳。どこまでも澄みわたった蒼。

「……よかった」

 ――震える。
 空気が、心臓が、魂が。
 どくりと音を立てて、心は彼しか目に入らない。
 なのに頭に浮かぶのは彼女の――毛利蘭の言葉だった。

『思ってること、素直に言うのが今の名前ちゃんに必要なことじゃないかな』

 言っても、いいのだろうか。
 ただ心のままに、透に伝えても。
 彼は、困らないだろうか。

「――もっと、頼ってほしい」

 頭では逡巡していたはずなのに、口が勝手に動いていた。思慮もなく言葉が飛び出していた。
 しまった、と一瞬思った。でも後悔したところで発したものは戻らない。名前は息を吸い込んだ。今は、彼女のことを信じたい。彼女と、彼女と共にいた自分を信じたい。そして誰よりなにより彼のことを一番に信じたかった。

「私、"あなた"の力になりたい。あなたが自分の力で解決したいと思ってるのは分かってる。でも、それでも、何かしたいと思ってしまう。あなたのために、何かを」

 言ってから、支離滅裂だなと思った。何かしたいから命じてくれと言われても普通困るだろう。だって名前がもし請われた側だったら困る。
 おそるおそる様子を窺う。最初、透は目を見開いた。驚いた。そう、ありありとかかれた顔。ここまでは想定内の反応だ。
 けれどそのあとで透は柔和に笑んだ。目元をなごませ、穏やかに。滲むように、微笑んだ。

「……"俺"は、なにもしてやれないのに?」

 息をのむ。ほんのすこし、彼に触れた。己を覗かせた。そんな気がした。
 ここで踏み違えたら終わりだ。きっともう二度と会えない。そう思ったから、名前は彼の腕を掴んだ。「それでもいいの」構わない。たとえ、あなたがあなたでなくても。

「それも偽物かもしれないのに」

 透はしずかに言う。「俺がどんなか察しがついてるだろう」伸べられた指先。つめたい温もりが頬を這う。「全部、俺が仕向けたものだとしても。名前はいいの」作り物のように整った笑みは今の生活を彷彿とさせた。与えられた名前、仮初めの関係、偽りの日常。目を背けてきたものを、透は名前の眼前に突きつける。
 名前はかぶりを振った。「いいの。だって、」去来するのは過ぎ去った日々。いくつもの思い出が名前の背中を押す。

「偽物も本物も、きっと私は好きになるから」

 最初に好きになったのは安室透だった。でもそのあとでバーボンのこともずっと前から気にかかっていたのを思い出した。そして彼らとは別のもう一人のことも好きだと思った。三つは違う感情だったけれど、どちらも好きというのに変わりはなかった。そのいずれかが恋でそれ以外は違うものなのかもしれない。名前には分からない。きっと、この先も。でもそれでいいのだと思う。彼に抱くすべてを名前は恋と名づけた。それでいい。それが、いい。
 言うと、透の顔がゆがんだ。

「……すまない」

 絞り出された声。波立つ瞳。すまない。そう言って、透は名前を抱き締めた。
 ふわりと立ち昇るかおり。果物の爽やかさと彼自身の清々しさの混じったそれに、なんだか泣きたくなった。これすら嘘だというならいったい彼は何をよすがに生きているのだろう。
 「俺はきっと名前を捨てるよ」押し潰されたように彼は喋る。自分の言葉で自分が傷ついているように。

「優しくないんだよ、俺は。誰にも優しくできない。だから名前に何も返せない。何も答えられない。それでも、」

「……いいよ」

 ぎゅっと抱き返す。あなたはここにいるのだと知らしめるために。名前を信じてもらうために。

「傷つけられても、捨てられても、利用されても、なんだって平気よ」

「……被虐趣味にもほどがある」

 からかいにいつもの力はない。虚勢に満ちている。でも気づかぬフリをした。「そうなのかもしれない」冗談っぽく返して、彼の潤んだ声にも濡れた肩にも触れなかった。

「――ありがとう」

 そんな、かすかな囁きにも。