武官、信じて送り出す


 姫発の背中を見送った名前は、その後蝉玉に呼ばれ、隊列の後方にいた。
 だから驚いてしまった。

「ぬぉおおお行くぜヤローども!!!正義のためにメンチ城をぶっ潰すぜぇ!!!」

 そう雄叫びを上げ、父が馬を駆けていったのに。驚き、声を失った。
 馬の嘶き。無数の蹄が地を蹴る音。それから、軍勢が上げる閧の声。
 周の大将軍南宮括は部下を率いると真っ直ぐメンチ城へと進軍していった。それを名前は後ろから見送るしかできなかった。
 我に返ったのは土埃の薄れた頃。父の背が晴れた視界のずっと先まで進んでしまった後だった。

「……あなたのパパ突撃しちゃったみたいだけど」

 いいの?と蝉玉に問われ、名前は力なく首を振る。
 ーーよくない、まったくもっていいはずがない。軍師代行である楊ゼンから明確な指示も受けておらず、陣形も整っていない上、相手方の兵の姿すら見えぬ今、無策に突っ込むなど言語道断である。
 そんなことは大将軍である南宮括も承知のはずなのだけれど……。

「武王に兵を任されたのがよほど嬉しかったのでしょう」

 父のあの様子からして、理由は大方そんなところであろう。
 ーーまったく、子供のようにはしゃいで……。
 母が見たら呆れられるばかりでなく一喝されそうだ。だがここにそんな母はおらず、いるのは父を止める術を失った名前だけ。

「ま、心配するこたねぇさ。仙道が出てきたら俺っちがなんとかしてやるから」

「そうよ、あたしにドーンと任せときなさい!」

 止めに入るには遅く、かといってそのままにしておくわけにもいかず。
 人間である自分が仙道の待ち受けるメンチ城に向かってもいいものかと頭を抱える名前に、友人たちは励ましの言葉をくれる。

「天化どの、蝉玉さん……」

 天化の気負いのない笑顔も、蝉玉の頼りがいのある言葉も。今の名前には眩しく、そして心強いものだった。
 胸に広がる温かなもの。じんわりと染み渡るそれは、「ありがとうございます」という言葉になって名前の口から零れ出た。それにも二人は優しく応えてくれるのだからーー本当に、善き友に恵まれたのだと痛感する。

「それじゃあーー、」

 行きましょうか、と蝉玉に誘われた時だった。

「なにっ……!!?」

 地表が隆起する。その様は嵐の日の河川のようで。水面のごとく波打つ地面はやがて人の手を形作り、そしてーー。

「武王さま……っ!!」

「ダメだ名前っ!!!」

 人が、馬がーー悲鳴が、呑み込まれていく。呑み込まれていくのが土煙の向こうに見えている。見えているのに、名前にはどうすることもできない。ただ手を伸ばすことしか。

「いったい何事……?」

 騒乱はすぐに収まった。何もかもがほんの一瞬の出来事だった。それが過ぎ去るとすべてが嘘のような静けさが辺りには広がっていた。
 そんな中を呆然とした呟きが落ちる。それが蝉玉のものであると名前が理解したのは、自分を押さえつける腕があることに気づいてからだった。

「……大丈夫か?」

 無謀にも駆け出そうとした名前を引き留めたのは天化だった。
 彼はその頑健な腕で名前を背中から抱え込んでいた。我に返った名前が痛みを覚えるほど、強く。
 それは名前の身を案じるが故のことだとその瞳からも声音からもわかる。だから名前は冷静になることができた。平穏を取り戻した視界の隅、武王が楊ゼンに守られたことを認知し、安堵の息を吐いた。

「ありがとうございます」

「いや、平気ならいいさ」

 彼の拘束はすぐに解かれた。
 しかしそうされたからといって主の元へ駆け寄ることはできない。南宮括以下兵たちは地面に埋もれたままであったし、そうした敵の姿も未だ見えなかったからだ。迂闊に近づいては彼らの二の舞になるだけなのは目に見えていた。

「これはやはり仙道の……」

「だろうな」

 頷く天化を見上げ、名前は顎に手をやった。
 この攻撃。恐らく相手は土行孫と同じ地行の術の使い手だろう。しかもこのメンチ城、辺りは小高い山に囲まれている。不意を突こうとすれば相手に奇襲を許す可能性の方が高い。
 厄介な相手だ。そう、名前は唇を噛みながら思案する。
 それに相手の姿を一度も捉えられていないというのも引っ掛かる。地行の術ひとつでこうはいくまい。となると敵は二人以上となる。一人は張奎としても、その姿を隠している何者かとは一体ーー。

「悩むことはねぇさ」

 そんな名前を引き上げたのはやはり天化だ。
 彼は名前の背を軽く叩き、それからにっと笑ってみせた。その後ろには蝉玉や雷震子やーー信の置ける仲間たちの姿があった。

「その通り!なんたって周にはこのあたしがいるんだからね!!」

「そうだぜ名前姉!!こんなヤツ、オレ様の敵じゃねぇ!!!」

 蝉玉と雷震子はそう高笑いすると走り去っていった。名前が止める間などありはしない。
 しかし不安は不思議となかった。だって名前は彼らの強さを知っている。そして何より彼らの言葉に嘘はないと信じていた。信じているからこそ、名前はその場に留まることができた。

「そんじゃ俺っちも行ってくるさ。出番をかっさらわれちゃたまんねぇからな」

「はい、……お気をつけて」

「……おう」

 例え天化が戦場に赴こうとも。その体から流れる血があることを知っていても。
 それでも名前は彼を信じた。信じて、その手を握りーー離した。自身の両の手から、温もりと同じように力が伝播することを祈りながら。
 二人は視線を交わし、無言のうちに頷き合った。そして駆けていく天化の背を見送った。仲間たちの手がもたらすのが勝利だけであると信じて。