武官、長雨に打たれる


 ーー周の軍師、太公望が帰ってきた。
 その喜びの前では彼がスーパー宝貝を携えていることなど、名前からすれば些細な変化であった。もっとも、楊ゼンら仙道にとっては大問題であったろうが。
 スーパー宝貝、太極図。それは宝貝による効果を打ち消すもの、らしい。それも敵味方関係なく。

「これじゃあたしの全力が出せないじゃない、ねぇ?」

「そうですね……」

 天幕の中で不満げに口を尖らす蝉玉から事のあらましを聞き、名前は笑みをこぼした。それは何も彼女の言い分がおかしかったからではない。
 ただ嬉しかったのだ。太公望がーー彼が無事に帰ってきた。それが、何より嬉しい。
 九ヶ月という決して短くはない時間。その間空席となった周の軍師という役割には楊ゼンが就いていた。
 彼の采配に不安も不満もなかった。そう、周の軍師という穴は名前の中で存在しなかった。存在しなかった、けれど。
 ーーしかし太公望がいるというのはこの上ない安堵を名前にもたらした。
 思えば名前が最初に出会った仙道は太公望であった。彼がいたからこそ名前もまたこの革命に心を預ける決意ができた。彼がいなければ今の名前はなかった。
 そんな彼が長い旅から帰ってきたというのだ。喜ばしく思わない者など周の中にはいないだろう。
 とはいえそんな心情を詳らかにするのは本意ではない。だから名前は笑みの真実は語らず、蝉玉の手を取った。

「でも蝉玉さんは剣術にも長けているでしょう?それならなんの心配もないわ」

 名家の生まれとあって、蝉玉もまた武芸に秀でていた。道術を抜きにしても、彼女本来の能力だけで十二分に渡り合えるであろう。
 彼女と稽古で切り結んだ経験があるからこその名前の言葉。そこに嘘偽りなどあるはずもなく。

「そ、そう?……それならまぁ、いいんだけどさ」

 それが通じたのか。
 歪んでいた口許を緩ませ、蝉玉は照れくさそうに頭を掻いた。
 しかしそれも長くは続かない。

「ていうか!ハニーはどこ逃げたのかしら!!?」

「さ、さぁ……?」

 怒りに呆気なく塗り替えられる顔。可愛らしい造りのそれを鬼神のごとき形相に仕立て上げるほどの憤怒。あまりの苛烈さに彼女の周りにだけ熱風が吹き荒れているようにさえ思えた。無論、錯覚だろうが。

「絶対吊るしてあげるんだから……」

 ポキリポキリと指を鳴らす音。その様に名前は顔を引き攣らせる。が、土行孫への同情心は一切なかった。
 名前は蝉玉から事情を聞いただけだ。だがそれでも土行孫の行動はあんまりだと思った。
 ーー戦いの最中だというのに敵の女将に入れあげた挙げ句、その宝貝の餌食になるなんて。
 蝉玉という伴侶を得てなお何が不満だと言うのか。名前にはとんと分からなかった。ただ土行孫の女癖の悪さだけが名前の中で引っ掛かり、蝉玉ほどではないにしろその短慮はいかがなものかと思わせた。
 つまるところ、名前もまた怒りを覚えていた。大切な友人を裏切った土行孫に。
 その性根を正すためにも多少の痛みは必要だろう。そう思うから名前が蝉玉を止めることはなかった。

「見つけ次第捕らえるようにと兵にも伝えてあります。さしもの土行孫どのもいずれは音を上げ地表に出てくるでしょうから……時間の問題でしょう」

「ありがとっ!やっぱり持つべきものは友よね〜〜〜!!」

「いえ、このくらいは」

「でもやーっぱりあたしの手で捕まえてあげたいからもう一回辺りを探してくるわね!!」

 じゃあね、と蝉玉は軽やかな足取りで天幕を出ていく。その後ろ姿には先刻までの戦いの余韻は感じられない。疲れ知らずといった様子に、名前は素直に感心してしまった。

「モグラもよく懲りずにやるよなぁ」

 その後ろで呆れたように笑ったのは天化だった。それまで黙って名前と蝉玉のやり取りを聞いていた彼だったが、彼女が立ち去るのを見届けると体を起こした。

「ごめんなさい、騒がしくしてしまって」

「いいさ、元はと言えば転がり込んだのは俺っちの方だかんな」

 張奎との戦いの後。彼の妻だという仙道から攻撃を受けた彼は大事をとってか名前の天幕で休んでいた。
 たぶん黄家の天幕には居づらかったのだろう。それも特に天祥の前では。父を亡くした後の幼い弟の前で弱ったところは見せられない。兄である彼ならば考えそうなことだ。
 そんな彼は気遣う名前に「気にするな」と手を振る。
 その仕草に違和感はない。傷も以前からある腹部のもの以外は見当たらなかった。
 ーーけれど。

「……ですが、顔色が優れぬように思えます」

「……っ」

 言うべきか、言わざるべきか。
 迷いながら口を開いた名前の前で、天化は息を呑む。そしてそのすぐ後でくしゃりと表情を崩した。

「……フツーにしてる、つもりなんだけどなぁ」

 それがどういった類いの笑みであるのか。名前には判別することができなかった。
 苦しげにひそめられた眉。歪んだ口許。血を吐くような語調。自嘲を含んだ声音。ぐらぐらと揺らぐ、瞳。
 泣きそうだ、と名前は思った。壊れそうだとも。だから怖くて怖くて……名前は彼の手を取った。
 その指先は痛いくらいに冷えきっていた。いつからかわからないくらい前から、ずっと。
 そう思った瞬間から、名前の胸は引き裂かれるような痛みを覚えた。でもきっと痛いのは彼の方だ。彼の方がずっとずっと痛いはずだ。痛みも、苦しみも、名前には想像することしかできない。

「ごめん、名前……」

「いいえ、いいえ」

 そんな名前でも天化は許してくれた。触れることを許し、逆にその身を名前に委ねた。
 肩に埋もれる顔。背中に縋る震えた手。それでもまだ、彼はここにいた。名前の、腕の中に。

「……治らなかったんだ。俺の、傷だけ」

 しばらくして、彼はぽつりと呟いた。
 その囁きは雫の一滴よりもささやかであったのだけれど、天幕の中では嫌になるくらいよく響いた。
 ーー治らない、傷。
 それはたったひとつの事柄を示す。妖怪仙人によって負わされた怪我。止まらない出血。
 それは太極図でも打ち消すことのできない呪いだった。

「師叔は癒しの宝貝って言ってたけど……妖怪仙人の原形にゃ関係ないみたいさ」

「天化どの……」

 太極図が癒せるのは宝貝によって傷ついたものだけだ。そこに妖怪仙人の呪いは含まれていない。それは宝貝によるものではなく、彼ら自身の能力によるものだからだ。

「だろうなって思ってたけどな」

 天化は苦笑した。わかっていた。けれど、期待してしまったのだと。期待して、勝手に失望して。だからこそ情けないのだと。
 彼は言って、けれど以前のようにひとり呑み込むことはしなかった。代わりにいつかの時をなぞるみたいに名前を抱き締めた。

「ごめんな、ごめん……」

 掠れた声に名前は答えられなかった。なんの言葉も思い浮かばなかった。彼にかけてやれる言葉なんて、何一つ。
 ただ名前にはその体を抱き締めることしかできなかった。長雨に晒されたように冷えた体からこれ以上熱が奪われないように。何者にも脅かされないように。
 ーー彼がどこにも連れ去られないように、と。