武官、黄河を渡る
メンチ城での戦いは、城主が退いたことにより終息することとなった。
何があったのか、名前にはとんとわからない。が、太公望とのやり取りの中で思うところがあったらしい。そんな張奎は現在殷を離れ、旅に出ている。
お陰で名前たちはメンチ県を越え、とうとう黄河にまで至っていた。
メンチ県と王都朝歌の間に横たわる黄河。それは通常流れが速く、船を借りるのが河を渡るのに最善の道だった。
だかこの日の水面は凪いでおり、浪も立っていない。ひどく穏やかな様相で隊列の前に広がっていた。
これもまた吉兆の証なのではないだろうか。兵は口々にそう言い、和やかな空気のまま、一行は船を手配せずその足で川を渡ることにした。
「うわっ、とんでもねー冷たさだな」
一歩、足を踏み入れた姫発が悲鳴を上げる。
それも当然だ。何せ季節は冬ーー初冬を迎えた黄河は痛いほどに冷えきっていた。
「ですから武王さまは輿に乗られた方がよいと申したではありませんか」
名前は振り返り、呆れた風に言った。けれど内心はその身を案じ、左右の者に目配せをしていた。いつでも輿の準備ができるように、と。
けれど姫発は首を振った。
「俺だけそんな楽してたら示しがつかねぇだろ」
「……そうですね」
名前はちいさく笑った。姫発らしい言い回しに。それでいて記憶の片隅に重なる言葉に。
笑みをこぼし、訝しむ姫発に小首を傾げた。
「なんだか不思議な心地です。まるで姫昌さまとお話ししているようで」
「なんだそりゃ」
「似てきたということですよ、お父上に」
「……そうかよ」
姫発の返事は素っ気ない。だがそれが照れ隠しだと名前にはわかっている。仄かに赤らんだ目許。そういうところは幼い頃から変わりない。だからこそ重臣たちも彼に忠誠を誓っているのだろう。
微笑ましげに姫発を見守る臣下を視界に捉え、名前は思う。やはり彼こそが次代の王に相応しいと。
そう思いながら、名前は手を差し出した。
「武王さま、お手を。これより先は少々深くなっておりますから」
「平気だって、ガキじゃねぇんだし」
「ですが武王さまには前科があるでしょう?」
渋る姫発だったが、名前の言には顔色を変える。
「それこそあれはガキの時の話だろ!だいだいあん時は名前だって……」
「そうでしたか?忘れてしまいました」
素知らぬ風ですっとぼける名前に、姫発は口を歪めた。
「お前……都合の悪いことだけ……」そうぶつくさと呟く姿からは、あからさまに臍を曲げたのだということが伝わってくる。名前のからかいも子供じみたものであったが、彼の反応もまたそれに近しい。
だから名前も子供の頃と同じように彼の手を取った。
「大丈夫、今のわたしならばあなたが躓いたとしてもちゃんと支えきれますから。もう二人揃って濡れ鼠になることはありません」
「名前……、お前やっぱ覚えてんじゃねーか!!」
「そりゃあ忘れませんよ、大切な思い出ですもの」
姫発に吠えられ、名前は堪えきれずくすくすと笑った。片手で口許を押さえ、もう片方の手で姫発の手を引いて。
そうしながらでも十分に歩を進めることができた。躓くことも足を滑らせることもなく。幼少期よりも確かな足取りで河を割いていった。
「……俺も、覚えてる」
冷えきった水面に落ちる声。ささやかなそれは雪のように名前の耳許に落ち、溶けた。
名前は目を上げた。その先には姫発がいた。眩しくもないのに目を細めた彼が。濡れたような瞳をした彼が、名前を見つめていた。
「忘れない、絶対に。だから、お前も」
覚えてて、と彼は言う。濡れたような目を細めた彼が言う。
それを見ているとーー見つめられていると、なぜだか名前の中である種の感情が沸き上がった。それは悲しみだとか切なさだとか寂寞感だとか、そうした類いのものであった。それだけは名前にもわかった。ーーそれしか、名前にはわからなかった。
「……忘れません。わたしも、絶対に」
名前にできる約束はこれだけだった。この先の保証など、それくらいしか言うことができなかった。永遠を誓うことも生を約束することも。最後の戦いを前にして口にすることはできなかった。
だからせめて、と名前は指を絡ませた。ほんの少しだけ、微かに契りの証を残し、それをほどいた。
姫発は「そうか」とだけ答えた。たぶん彼にもわかっていた。わかっていて、その上で彼は願ってくれた。ーー名前の答えを、受け入れてくれた。
「それならいい、……いいんだ」
「武王さま?」
姫発は一度目を瞑った。そうして、何かを噛み締めるように言った。
それがなんなのか、何を思っているのかーー名前が言外に訊ねても、彼は「いや、」と首を振るだけである。
「っつーかよぉ、お前、こんなとこにいていいのかよ」
姫発ははぐらかすように話題を変えた。そうしながら彼の指は遥か後方を指し示している。
「気になってるんだろ?」何が、とは言わない。言わないけれど、その答えは名前が何よりわかっていた。
けれど言い当てられたのに驚いたのは真実で。目を丸くしていると、姫発は「それくらいわかるさ」と呆れように笑った。
「何が、ってのはわかんねぇけどよ。気がかりがあるんだろ?こんなとこで油売ってないで行ってこいよ」
繋いでいた手がほどかれる。彼の方から解かれ、離れていく。
そしてその手は名前を促すようにその肩を叩いた。
けれど名前は動かなかった。そっと否定を示し、微笑んだ。
「大丈夫です。ええ、きっと……今はまだ」
思い出す。あの長雨の日を。雨に打たれたように冷えきった体を抱き締めた時のことを。
しばらくの間名前に身を預けていた彼だったけれど、次に体を起こした時にはもう涙の残滓しか残っていなかった。それも次の瞬間にはかき消え、「ありがとな」と言う顔には照れを含んだ笑みだけが残っていた。
彼は傷ついていた。だが折れてしまったわけではない。たぶんきっとーー何かを果たすまでは。
それが察せられるほど、彼の目に宿る決意は固かった。その輝きは星のように激しく燃えていた。だからそれが燃え尽きた後のことなど考えたくなかった。
しかしそれは裏を返せば目的に辿り着くまで彼の身は守られるということだ。戦いの終わっていない今、彼が無茶をすることはないだろう。だからきっと大丈夫ーー不思議とそれだけは自信があった。
たぶん名前にはわかったからだ。彼の思いが、痛いほど。この国に安寧をもたらすまではーー主君を真の王とするまでは戦いを止めることはできない。たとえこの身が幾千に引き裂かれようと、歩みを止めるつもりはなかった。
「……お前が後悔しないならいいけどよ」
「ええ。……ありがとうございます」
いまだ納得はしていないといった風で、けれど姫発は頷いた。
名前にできること。それはこの戦いを終わらせること。そして主君を守り抜くことだ。だから名前は姫発の手を引いた。
隊列の後方にいるであろう天化の身を案じながら。傷口が痛まないか気にしながら。河から上がったらすぐに温まってもらおうと考えながら。
名前は歩き続けた。