武官、決戦を前に想う事
黄河を渡り、四大諸侯と合流した周軍の元に驚くべき報せがもたらされた。
「殷軍はこの先三十キロの牧野の地に終結しております。その数……七十万!!!」
「なっ……、七十万!!?」
これにはさしもの太公望ですら驚嘆の声を上げる。それもそうだ。朝歌軍の兵力はおよそ二十万であろうと推測していたのだから。
しかしそんな考えを覆すのが妲己という女である。
「誘惑の術か……」
妲己は宝貝の力を使い、朝歌の民や子供までもを兵力として動員していたのだ。
「なんと卑怯な……」
「くそっ、民を巻き込むなんざ正気じゃねぇ!」
妲己がいかな美女であろうが今の姫発には関係ない。民を思う王として彼は憤りを露にした。
名前も一軍を率いる将として平静ではいられなかった。
七十万。相手が戦に慣れていないとはいえ、数の差は歴然。しかも敵は無辜の民まで戦場に駆り出している。それは周軍にとって盾も同様で。
「どう対応するべきか……」
「大丈夫だ」
悔しさに歯噛みする名前の肩を叩いたのは太公望だった。
その声の力強さに目を丸くし振り仰ぐ名前に、彼はニッと笑ってみせる。
「策はある」そう言った彼の手には打神鞭ーースーパー宝貝太極図を取り込んだそれを指し示し、太公望は深く頷いた。その目には迷いも躊躇いもない。
それは名前のよく知る軍師の顔で。
「はい。……信じております」
名前も表情を緩め、微笑むことができた。
気遣ってくれるのは何も太公望だけではない。
「天化くんのことなら師叔も気にかけている。だから君が案ずることはない」
楊ゼンもまた、名前の友として言葉をかけてくれた。
軍営を築き、夕食に黄河で取れた白魚を食した後。兵が三々五々と散った営中で、名前は明日に備えて見回りをしていた。それは戦のためであったし、自身の心を落ち着けるためでもあった。
そんな名前を呼び止めたのが楊ゼンだ。
彼は「わざわざ伝えることもないだろうけど」と前置きして、件の言葉を名前に伝えた。「君は君の戦いに専念するといい」そう、言い添えて。
「ありがとうございます。……でも、わたしは大丈夫」
優しい瞳に、名前は苦笑する。まさか彼にこのような言葉を言わせるとは。それほど名前が平静ではなかったということだろうか。自分では落ち着いているつもりだったのだが。
故に苦笑し、友人を仰ぎ見た。
「不安を抱いているのは事実です。彼を止められないのも。……仕方のないことだと、理解しているのも」
名前は目を馳せた。遠く、黄家の幕舎まで。同じように明日の戦いに思いを馳せているであろう彼を想って。ーー彼の願いの欠片を思い返しながら。
明確な言葉として受け止めたわけではない。けれど彼が何事かを決意し、その答えのために歩みを進めていることだけは察しがついた。それがこの戦いに関わるものであることも。
それは名前にも理解できる感情だった。名前もまた、目的のためだけに戦っていた。目的があるからこそ生きてこられた。
だから天化を止めることなどできない。それは彼の意志を殺すのと同じだからだ。たとえ彼がその身を削ろうとも、名前には手出しできない。
「わたしはただ、祈るだけです。彼がその願いを果たせるように」
「……そう」
もう一度。楊ゼンに視線を移し、今度こそ名前は笑みを浮かべた。曇りなく、ただ一心に彼を想って。
楊ゼンもそれを静かに受け入れた。小さく顎を引き、それから「羨ましいな」と溢した。
ぽつりと落ちたそれは思わずといったもので。
「羨ましい?」
拾い上げるべきではなかったのかもしれないけれど、名前は聞き返さずにはいられなかった。何か含みを持った友の表情に。
楊ゼンは「あぁ、」と答えた。その顔には先刻名前が洩らしたような苦笑に似た笑みがあった。
「父の志を継ぐ……っていうのが少しだけ羨ましいと思ったんだ。僕にはもう、父の本心を聞くことはできないから」
「お父上……通天教主さまのことですね」
「うん、」
楊ゼンの父、通天教主は仙界大戦の最中に亡くなった、らしい。詳しいことは名前も聞いていない。ただ、楊ゼンが再会した時にはもう彼の心は失われていたーーそう語った時の楊ゼンは落ち着いていたけれど、内心がどうであったかまではわからなかった。
だが悲しくないわけがない。傷つかなかったはずがない。それはきっと今も楊ゼンの中に爪痕を残しているだろう。
「でも、通天教主さまは楊ゼンさんを守ろうとしたのですよね?」
だから名前は迷いながら口を開いた。躊躇いを含みながらも、しかししっかりと楊ゼンを見上げて言葉を紡いだ。
「ならば楊ゼンさんが今ここにいる……そして仙人界と人間界のために戦っている。それこそがきっとお父上の志を継ぐということになるのではないでしょうか。例え楊ゼンさんにその自覚がなくとも」
名前が通天教主と出会ったことはない。一目見たことすら。名前が知っているのは楊ゼンから伝え聞いた断片的な情報、それだけだった。
だが彼が楊ゼンを妲己から守るために崑崙山に託したということだけは知っていた。それだけで十分だと名前は思う。それこそが父親として出来うる限り最大限の愛だと。不器用ながらも楊ゼンを想う気持ちを感じ取ることができたからーー名前はそれを楊ゼンに伝えた。
彼だって父の愛情を察してはいるはずだ。けれど他人に言われるのとではまた違ったものがあったのだろう。
「そう、だね」
少し驚いたように目を見張ってから、楊ゼンはゆるりと頬を緩めた。
「僕は僕の意思で……大好きな人たちを守りたくてこの道を選んだだけだけど」
「だからこそ尊いものだと思います。妖怪仙人であるあなたが崑崙山の仙人として人間界を守るから……」
言いながら、本当にその通りだと名前は改めて思い知った。
楊ゼンがいなければ妖怪仙人と分かり合う道もあるのだと知ることはなかったろう。大多数の人間が思うように、妖怪仙人とは人を餌にするものとしか認識せず、名前は一生を終えていたに違いない。
そう痛感し、名前は思わず楊ゼンの手を取った。驚く彼を無視して、その手を握った。人と変わらない温かさを持った手を。
「ありがとう、楊ゼンさん。あなたと友達になれて……本当によかった」
ほの白い光を浴びた楊ゼンの空色の髪はきらきら輝き、月神のごとき装いを見せていた。以前の名前ならば触れるのを躊躇うほどに美しかった。白磁のような肌も、白魚のような指先も。彼を彩る何もかもが凄惨なまでの美しさを孕んでいた。
「……君はよくそんな恥ずかしい台詞を吐けるね」
けれど照れたように朱を刷く様はひどく人間らしく。名前にとってはもう大切な友のひとりでしかなかった。