武官、牧野にて朝を迎える


 明けの平原は痛いほどに静かで、時折吹く風すら身に凍みる。
 名前は息を吐き、白んでゆく空を見上げた。それから、遠く居並ぶ殷の隊列に目を馳せた。
 殷の軍隊、その数七十万。それは先鋒から報告のあった通りで、けれど彼らの目が暗く濁っているのに名前は胸を痛めた。戦は綺麗なものではない。ないけれど、それでも最低限の仁義だけは守られてしかるべきだ。そう、名前は思う。戦が美しくないものだからこそ、と。

「名前、そちらの用意は?」

「はい、問題なく。先刻通信兵も定位置に着いたと連絡がありました」

 歩み寄った太公望に問われ、名前もまた落ち着いた声音で返す。と、太公望は「そうか」と頷き、先の名前と同じく視線を前方へと投げた。

「ではこれでいつでも始められるわけだ」

「……はい」

 名前は固い表情のまま顎を引く。
 もうすぐ始まるのだーーこの革命の終着点、殷本隊との戦いが。この、牧野の地で。
 きっとこれが最後の戦になる。その予感が名前にはあった。
 ーーいや、名前だけではない。すぐ傍に立つ武王もそれを感じているようで。彼はこれまでにないほど真剣な様子で重臣と話し合っていた。
 しかしだからといって恐れはない。不安も、また。張り詰めた緊張だけは辺りを取り巻いていたけれど、それ以外が周の隊列に混じることはなかった。
 だから大丈夫だーー。そう思いを込めて、名前は笑んだ。

「でも今の今まで心は凪いでいるんです。おかしな話ですけれど……」

 言うと、太公望は驚いたように名前を見た。しかしそのすぐ後でふと表情を緩め、同じように笑う。

「それだけ信頼されてるということか。責任重大だな」

 その瞳の奥では悪戯っぽい光がチカチカと瞬いていた。それに応える名前の顔もきっと似通ったものだったろう。
 「頼みますよ」名前は笑みを含みながら太公望を見上げた。頼りがいのある軍師の姿を。そうしながら彼らと共に駆け抜けた日々を想った。

「……先のことも考えなければなりませんね。平定したとしてもこの国は広大ですから」

「……そうだな」

 この戦いのその先で。周が勝利を手にするとしても、すべてが滅びの道を辿るのだとしても。どちらにしても、今この時は帰ってこない。永遠はどこにもないのだ。
 だから後悔だけはしたくなかった。だから名前はすべてを目に焼きつけようと思った。だから名前は、この瞬間も。

「ありがとうございます、太公望どの」

 微笑みながら、太公望に手を差し出した。
 死を決意しているわけではない。無論、諦めているわけでも。ただ悔いることのないように、何もかもを伝えたいと思った。それだけだった。
 しかし太公望にとってはそうではない。虚を突かれた体の彼は、まっさらな顔で名前を眺めていた。
 それが余程おかしかったのか。

「師叔のそんな顔は初めて見ましたよ」

 それまで黙して控えていた楊ゼンであったが、ついとばかりに揶揄いの声を投げ掛けた。くつくつと笑いをこらえる彼を、傍らの武王が呆れた風に見やる。が、彼は気にしなかった。

「応えてあげたらどうですか?せっかく女人が自ら手を差し出してくださっているんですから」

「いえ、楊ゼンさん、これは無理強いするようなものでは……」

 春寂寞ーーではないが、旅愁に似た感情が首をもたげたのは確かで。しかしそれは名前だけのものであり、人に押しつけるつもりは毛頭なかったーーはずである。
 だから楊ゼンの言葉に慌てたのだけれど。

「……それは、こちらの台詞だ」

 引っ込めようとした名前の手。寸前、それが囚われる。他でもない、目の前の人によって。
 太公望はいやに真面目な顔つきで名前の手を握り、真っ直ぐ見つめた。ありがとう。そう言う口の動きすら名前にははっきりと捉えることができた。何もかもが鮮明に名前の中に焼きついた。

「それから楊ゼン……余計な茶々を入れるでないわ。おぬしに言われずともわしは……」

「はいはい、そうですか」

「なんだその適当な相槌は!!」

 噛みつく太公望とそれをいなす楊ゼン。ふたりの常と変わらぬ様子に、名前も相好を崩す。
 ーーと。

「あ、名前くん」

 解れてる、と楊ゼンが声を上げる。その指摘の先、自身の後頭部に手をやり、けれど名前には後ろに目などついていないから、「そうですか?」と眉を下げた。手元に鏡はない。が、乱れたままでは格好がつかないだろう。
 そう思い、髪紐をほどく。

「いいよ、僕がやってあげる」

 すると距離を詰めた楊ゼンにそれは容易く奪われた。見上げても、笑みで交わされてしまう。あえかな、と言ってもいい顏に浮かぶ有無を言わせぬ微笑。名前には「お願いします」と言う他ない。

「はい、できたよ」

 しかしそう言うだけの手さばきが彼にはあった。尤も、名前は重々承知していたのだけれど。
 それを初めて見た太公望は「変なところまで器用だな」と感心とも呆れともつかぬ語調で呟いた。ついでに、「そう変わったようには見えんが」とも付け足して。
 それに肩を竦めたのが楊ゼンである。

「師叔は変なところで節穴ですね。……ね、武王」

「ん?あぁ……」

 楊ゼンは話を終え歩を進めてきた姫発に話を振った。
 突然のこと。だというのにそれまでの経緯は把握していたらしく、姫発は名前を上から下まで眺め回して、それから。

「ま、いいんじゃねぇの。前のも悪くなかったけど、こっちの方が……動きやすいだろ」

 少しだけ間を置いて。
 姫発は大人びた顔で笑った。
 それはこの旅の中で彼が見せた変化のひとつで。しかし今度ばかりはそうする理由がわからず、引っ掛かりを覚えたのだけれど……それ以上に気になるのは。

「そうか?どちらも大差ないだろう」

「ええ、確かに楊ゼンさんがやった方が綺麗な仕上がりになっているでしょうけど……」

 名前は太公望と同じところで躓いた。動きやすい、その観点から見れば太公望の言うように大差はないはずだ。ただ彼がやったものの方が一手間も二手間も加えられているだけで。
 そう思い、首を傾げる二人を見て。

「わかってないですね、」

 なぜだか楊ゼンは溜め息を吐いた。