幸福論

 蝶が舞っている。
 はらはらと、薄紅色の蝶が。
 名前は目の前の光景に言葉を失った。息を呑んだ。目を、奪われた。舞い踊る花弁に。桃色の絨毯に。
 ーー一面の、桜。
 見渡す限りに咲きこぼれる花。幕が降りたみたいに道の先までずっと滲む色。雲だとか雪だとか靄だとか、そんなもので視界が霞んでいるようだ。その間を溢れた花びらがはらはらと舞い踊る。世界は淡い桃色に包まれていた。
 ーーまるで、異世界にでも迷いこんだかのよう。
 ここは不思議の国。夢の国。名前の、桃源郷。
 でも。

「…………っ、」

 そんな美しい桜よりなお麗しい人がいる。
 安室透。彼の周りでは桜すら背景と化してしまう。彼を飾り立てる道具と成り下がる。普段から美しい人だけれど今日は一段と輝いている。
 靄のような花弁はうすらと日に透け、ヴェールのように彼を飾り立てた。その姿ははなにかの彫刻のように荘厳で。けれど紅の差す瞳は生き生きと瞬き、温かく世界を包んでいる。刻のとまった楽園。理想郷の主。そんな言葉が胸中に浮かんでは消えていった。

「きれい……」

 ほう、と溜め息が零れる。美しさに魂が震えるというのを初めて知った。この世で一番うつくしいものは今名前の隣にある。その奇跡に、泣きたくなった。
 透はそんなことには気づかない。「だろう?」と自慢げに胸を張る。名前が言ったのは彼のことだったが、訂正はしないでおいた。桜を美しいと感じたのもまた事実なのだから。

「名前に見せたかったんだ」

 噛み締めるように透は桜並木を見つめる。「きみに、見せたかった」僕がうつくしいと思うものを、名前にもみてほしかったんだ。知ってほしかった。共有したかった。僕の世界を、名前に。

「……わたし、も」

 名前は手を伸ばした。指先が温もりを掠める。手の甲が温もりに震える。「みたいと、思ってた」言ってからーーあぁ、そうかーーと思った。そうだ、名前は知りたかった。ただ、言葉が欲しかった。彼の言葉で表された世界を。

「ありがとう……」 

 今触れているのは世界の限界だ。彼の表した世界だ。これは、これが、"彼"の世界だーー。
 ーーなんて、うつくしいのだろう。
 名前は世界をみた。舞う桜。照る光。ーー笑う、人々。
 その一つとして欠けてはならない。すべてが彼の世界だ。そして、名前の世界だ。
 護りたいーーそう、思った。思ったから、世界に触れた。手の甲は震えた。けれど、躊躇わなかった。「名前、」握られた手に、彼の目が見開かれた。名前は彼の中の自分を見た。たぶん彼もまた名前の中の自分を見ただろう。世界が交わるのを確かに感じたのだから。
 だからその先が聴こえなくてもよかった。音のない囁き。唇に乗る空気の震え。それだけ。それだけで、じゅうぶんだった。だってもう、名前にもわかったから。音がなくたって、ただの振動だって、それで名前には伝わったから。
 名前も声にはしなかった。ただ握り返された手にはにかんだ。そうして、少しだけ二人は身を寄せあった。桜の下を歩きながら、いくつかのことを話した。1週間後にこの場所で開かれる不粋な会合のこと、その詳細を透はまず語った。そもそも名前を花見に誘った理由がそれなのだから。
 ーー「頼ってほしい、んだよね」名前が心のうちを明かしたあと、透は確認した。「それじゃあ、」続く言葉に名前は首を傾げた。「そんなのでいいの」ベルモットと企てた策。その下見に付き合ってほしい、だなんて。言われたときは驚いたのだけれど。

「そう言えば断られないと思って」

 名前が断るなんてありえないのに!だのに、透はくしゃりと頭をかく。ふやけた頬。逸らされた視線。照れが滲む口角。「……ほんとうに、なんだろうね」途方に暮れたって感じの声。これでは名前の方が困ってしまう。俯いて、寄り添い歩く靴だけを眺めた。

「……役に立てたならよかった」

 透は「うん」とだけ言った。気まずいようなもどかしいような、そんな微妙な空気が流れる。でも二人して手だけは離さないでいるのがなんだかおかしい。
 どれくらいたったか。透が咳払いをした。そこでやっと彼の顔を見れた。コホン。そのポーズのまま、透は口を開いた。

「FBIがここに来るって、名前は聞いただろ?」

 意図的に変えられた色につられて、名前も顔を引き締めた。「うん、」透に言われて、名前はFBIのーー特に女性捜査官のーー身辺に気を配っていた。あちらも警戒してはいるようだが、とはいえ名前の情報は渡っていないらしく。彼らのどうでもいい世間話から赤井秀一への郷愁まで。おしゃべりな捜査官たちの会話は名前に筒抜けだった。
 そんな中で名前が拾ったのは、件の捜査官が江戸川少年からの連絡を受けたという事実だ。

「名前が聞きとったFBIの話……それと僕が聞いたコナン君の予定……それが見事に合致してるとなると…………」

 透は不敵に笑った。「きっと面白い話が聞けるんじゃないかな……」悪い顔だ。腹の黒い顔だ。なのにそうしていても透は格好いい。いや、ここはバーボンというべきか。とにかくいい表情をしていた。
 そんなあとで、同じ顔のまま違う表情を見せるのだから名前としてはたまったものじゃない。「名前のおかげだ、ありがとう」びっくりするほど柔らかな顔で柔らかな声で柔らかな視線で、透は言う。開いたばかりの花弁をなぞるような柔らかさはうっとりするほど心地がいい。「そう……」あぁ、もう!世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからましーーこの歌の気持ちが初めてわかった。こんなにも心を乱すのに手放せないなんて、本当に困ったものだ。
 でもいつまでも惑わされっぱなしじゃ心がもたない。なにか別の話題を……そうだ、桜といえば。

「桜の下には死体が埋まってる……って聞いたことある」

 桜の話をしたのはスコッチが最初だった。「日本の桜はすごいんだぞ」なんてなぜか得意げに語っていた彼。その彼がそんなことを言っていた。「怖いだろ」とニヤニヤしていたのに、名前が首を振るとガッカリと肩を落としていたのを今でも覚えている。
 透は意表を突かれたようだった。ぱちり、と瞬く目。でもすぐに小さく首を傾けた。

「あぁ……。うん、そうだよ」

 あっさりと。至極、あっさりと。透は肯定した。桜の下に死体があるということを。名前たちが死体の上を呑気に歩いていることを。
 そこで名前の思考は停止した。和やかな宴会と惨たらしい死体が脳内で交錯する。しかしあまりに縁遠いふたつに、名前の頭は追いつかない。
 その間にも透の口は回る。

「桜の木の下には死体が埋まっている……だから血を吸った桜は一際美しく咲き誇る。ほら、どこにでも古くからあるだろう、人身御供の話って。日本なら海を鎮めた弟橘媛とか竜に捧げられかけたシトナイとか。そういうのと一緒さ、花のために人の命を使ったんだ」

 「……なるほど」名前はそれだけ言った。言った、というより機械的に、反射的に発していた。頭は相変わらず止まったまま。だってスコッチの話なんて嘘八百だとばかり思っていたのだから。
 でも透が言うんならそうなのだろう。いや、そうに違いない。いかに現実離れしていようと、透が言えばそれが真実だ。烏だって白くなるのだ。
 と、名前が自分を納得させた頃。

「……なんて、嘘だよ」

 透は笑いまじりに言った。
 嘘だよ。そう透は言った。確かに言った。嘘だよ。嘘。ウソ。うそ…………

「うそ」

「うん、うそ」

 これもまたあっさりと。吐いた時と同じノリで透は首肯する。
 「……もう!」名前は口を尖らせた。スコッチだけじゃなく透まで同じ嘘を吐くなんて!二人して名前を騙そうとするなんて!こんなところでお揃いにしなくていいのに!

「いやだってまさか信じるとは思わなくて」

「信じるに決まってるでしょう、あなたの言うことなんだから」

 透の笑いが消える。ぴたりと。時が止まったみたいに。それから呟いた。「そ……っか、」一度目は無意識の内に。二度目は噛み砕き。三度目は舌に馴染ませるように。透は繰り返した。
 ゆるゆると染み込む表情は変わらず柔らかなものなのに、おどけた素振りなど微塵も含まないでいた。それは大きな決意をした男の顔だったーーように思う。
 「どうしたの……?」そうっと訊ねると。透は言葉を濁した。

「あぁ、いや……責任の重さを感じて」

 責任?おうむ返しても、透はそれ以上は掘り下げなかった。「名前はそのままがいいよ」とだけ答えて、頭を撫でた。それは早春のほのじろい光に似ていた。

「桜の樹の下には屍体が埋まっているっていうのは梶井基次郎の小説『櫻の樹の下には』の冒頭部分で……そこだけ独り歩きしてるんだろうね」

 透は「ちなみに桜に狂わされるっていうのは坂口安吾からだよ」と懇切丁寧に説明してくれるのだけれど。
 ……今度のは、本当だろうか。
 疑り深い目でじぃっと見つめると、息だけで笑われた。滑らかな笑い声が歯の隙間から溢れる。

「今度のは本当だよ」

 それでもまだ疑っている名前の鼻先を花びらが掠めた。一瞬。ほんの一瞬。触れるか触れないか。なのに、名前の口は勝手にくしゃみをしていた。それは近ごろではお馴染みの感覚だった。

「薬切れた?」

「そうみたい」

 最近かかったばかりの花粉症という病。さして病状は重くないが、名前には薬の効きが悪いというのが難点だった。ベルモットに手配してもらった特別製でもこれだから、市販薬じゃどうなっていたことやら。たぶんまったく意味をなさなかったろう。
 こう考えると自分の体もなかなか面倒なものだな、と名前は思った。けれどこの体があるからこそ彼の役に立てることもあって。すべてが万事うまくいくわけじゃないのが世の理だというのがよくわかる。
 そう考えながら、二度三度と堪えかけたくしゃみをする名前に、透はちいさく訊ねた。

「……日本に来なきゃよかったって思う?」

 名前は潤んだ目をそのままに聞き返した。「どうして?」まったくもって意味がわからない。そう、ありありと書かれた顔で。名前が言うと、いつの間にか強張っていた透の手がほどけた。

「……いいや、なんでもないよ」

 透の目が物語るもので、名前は納得した。今度は追いかけなかった。その必要はないと理解した。ただ名前は言葉にすればいい。

「私、この国が好きよ」

 必要なのはそれだけだ。
 それだけで、透の唇はほころぶのだから。

「凶……」

 桜並木を歩いた末、二人はついでとばかりにおみくじを引いてみた。
 元から名前の信仰心は薄い。占いなんてもっての他。なのだけれど、ここで凶を引くとは。出鼻を挫かれた気分だ。
 「まぁまぁ」ため息を吐く名前を、大吉を引き当てた透が慰める。励ますように肩に回された手。「僕にいい考えがあります」安室透の口調で、彼は少年の笑みを見せた。

「僕のを半分分けてあげればいいんですよ。それで名前が自分のを半分僕に分ければいい」

 これでぴったり、ちょうどいいじゃないですか。「ね?」にっこり。そう言われると、透の言う通りな気がしてくる。
 「でもそれじゃ透の幸せが逃げちゃう」名前が言えば、それすらお見通しとばかりに透は人差し指を立てた。真っ直ぐ伸びたそれは光を浴びて輝いていた。

「上がり目があった方がいいでしょう?」

 ……なるほど、それも一理ある。
 名前は頷いて、透に言われるがまま一緒にくじを結んだ。
 まったく下見になっていないのに気づいたのは帰路についてからだった。