死と乙女


 その日も彼女は屋上にいた。

「こんばんは、観音坂さん。いい夜ね」

 そう言って小首を傾げる少女。塔屋に背中を預けるその傍ら、うず高く積まれた本の山に独歩は呆れた。

「ここはお前の部屋でもなんでもないだろ……」

 たぶん、きっと。
 そう心の中で付け足したのは、彼女の手にかかればそれさえ自由になるのではという考えが頭を掠めたからで。
 しかしその予想を裏切って、名前は「そうね」と素直に頷いた。そうね、あなたの言う通り。でもその小さな手は本を閉じようとはしなかった。素直なのは言葉だけ。行動は裏腹に、開いたままのページがはらはらと音を立てる。
 だから独歩はそれ以上を言うのをやめた。諦めた、と言ってもいい。
 溜め息を吐いて、独歩は昨日と同じように少女の隣に腰を下ろした。

「……まぁ、俺が口出すことじゃないか」

 大体にして。
 そもそものところ、独歩がこんなにも人の領域を踏み荒らすこと自体があり得ないことなのだ。そうされるのが嫌だというのもあるし、人の生き方に指図するなど烏滸がましいという思いもある。自分のような矮小な人間が、と。
 そう、常ならば思うのに。

「あら、やめてしまうの」

 名前が残念そうに言うものだからーーそれを言い訳にしてーーきっと明日も独歩は彼女の行動に口を挟むのだろう。
 わかっていながら、「言っても暖簾に腕押しだろ」と憎まれ口を叩いてしまうから不思議だ。それを聞いて愉快そうに目を細める彼女も。その表情に胸を撫で下ろす自身も、また。
 しかしそんな独歩の顔も、少女の手の中にある本のタイトルと著者名を見た途端に顰め面に変わった。

「おまえ、またそんな本を……」

 メスキルヒの魔術師。そう呼ばれた人の本が、平易なタイトルに見合った中身でないことくらい独歩も知っている。し、遠い昔倫理の授業で覚えさせられた記憶もある。
 だが、年頃の少女が好き好んで読むものではない。そのタイトルも、ーー考えも。
 けれど名前はおかしそうに唇を歪めた。

「意外、あなたが不満そうな顔をするなんて。……観音坂さんはこういうの好きなんだと思ってた」

 そう言って視線を流す少女の横顔。その輪郭は円く、白々としていて。小難しい言葉の並べられた本にかかる指先もそれに見合った頼りなさであるのに。
 しかし少女の浮かべる微笑だけは大人びた様相で月光に照らされていた。
 ーーまったく可愛いげのないことだ。
 子供とはもっと無邪気なものでーーそこまで考え、独歩は「いや、」と首を振った。
 いや、自分がそう言うのは正しくない。彼女の言う通り、身に覚えがないわけではないのだから。

「……嫌いでは、なかったな」

「やっぱり」

 少しだけ正直に。しかし決まりの悪さを滲ませて、独歩は肯定の意を示した。
 けれど名前はといえばそうした反応には興味がない、とばかりに笑みを深めた。やっぱり。そう言った声音すら弾んでいるように思える。何が面白いのやら、独歩にはとんとわからないが。

「そうだと思った。あなたはきっとこういうのを笑わずにーー真剣に考えたことがあるだろう、って」

「……あぁ、」

 隣り合った少女から目を逸らして空を見る。昨日とそっくりなーーもしくは同一の、墨を流したような夜天を見た。
 覚えがないわけではない。独歩だって幾度も考えた。存在の定義を。意味を。理由を。考えずにはいられなかった。答えを求めずにはいられなかった。
 結局、それが叶うことはついぞなかったが。

「だから波長が合ってしまったのかしら。幸運なことに……あるいは不幸なことに」

「不幸?」

 少女の言葉を聞き咎め、独歩は眉を顰めた。不幸。幸運。どちらも身に覚えのない単語だ。
 と、独歩は思ったのだけれど。

「思い当たらない?」

 黒々とした瞳に問い返され、足許が揺らぐ。
 ーーこれはいつもの冗談の類いだろうか。
 一瞬考え、「いや、」とすぐに打ち消す。いや、そうじゃない。そんなはずがない。でなければこんなーーこんな、悲しそうな顔をするものか。見ているだけで胸が締めつけられるような表情を見せるものか。
 そう、心は断じるのに。

「……悪い」

 記憶の泉には小波ひとつ立ちやしなかった。そのことにわけもなく罪悪感が掻き立てられ、独歩は思わず謝罪の言葉を吐き出していた。
 そうせずにはいられなかったし、それ以上のーー例えば少女の頼りない体躯を抱き締めてやるとか、悴む指先を温めてみせるだとかーーそういったなにがしかを少女に与えてやりたいような気さえした。
 ーー尤も、思うは心ばかりで、そのことにもほとほと嫌気がさしたのだが。

「……いいの、あなたがそう思うのなら」

 それでいいのだと名前は言った。切なげに瞳を揺らしながら。天津少女と言わんばかりの顏を潤ませて。しかし決して詳らかにすることなく、彼女は口をつぐんだ。

「それは、」

 いいわけがないだろう。
 言いかけ、独歩もまた言葉をなくした。というより、躊躇ったの方が正しい。
 これ以上彼女の世界に踏み込むべきか、否か。
 知りたいと思うのは真実で、彼女を放っておく気にはなれないのも本当で。けれどその先を言ってはならないと思ったのも嘘ではなかった。その先を問い詰める形で聞き出す、そのことに独歩は躊躇ったのだった。

「…………」

 だから独歩は言葉をなくした。言うべきことを見失い、途方に暮れた。
 そうすると必然的に落ちるのは沈黙ばかりとなる。ちらり、と横目で窺うが、目を伏せた名前が何を思っているのかは予想もつかない。その指先が本のタイトルをなぞる理由も意味も。睫毛の落とす影の下、大きな瞳がどんな色をしているのかすら、独歩には判然としなかった。
 満ちる静寂。世界という器に並々と注がれた無音は息苦しささえ独歩にもたらした。意識がどろりとした沼に引きずり込まれていく。そんな錯覚すらも。
 そんな独歩に、少女はちいさく笑みかけた。

「今日はもう遅い。帰った方がいいよ」

 聞き覚えのある言葉。終わらない螺旋。独歩を襲うのは、強烈な既視感だった。

「またあした」

 そう言った少女に手を伸ばそうとしたのだけれど。
 それよりも早く、独歩の意識は闇に呑まれていった。