武官、最後の戦いに臨む


 自身を呼ぶ声に振り返る。と、そこには常と変わらぬ気さくな笑みを浮かべた天化が立っていた。
 その手にあるのは莫邪の宝剣ーーではなく、周の印が刻まれた鉄長刀である。が、それを認めた名前は目許を緩めた。

「ん?どうした?」

「いえ、……使ってくださるのだな、と」

「あぁ……」

 名前の視線の先。辿った天化はその言葉の意味を正しく理解し、笑みを深めた。
 「ありがとな」満足げな表情。柄を撫でる柔らかな指先。それだけで名前は嬉しくて、「いいえ、」と首を振った。

「わたしは何も。それを譲ったのは父ですし、研いだのは鋳物師ですから」

 周の軍師、太公望の新たな宝貝。他の宝貝を無力化するその力は、味方に対しても有効で。
 多くの仙道が後方に回ることとなったのだが、宝貝がなくとも戦えるという天化と蝉玉はそれを良しとしなかった。だったら剣でも何でも戦うわ。そう言った蝉玉に心強さを覚えたのは記憶に新しい。
 とはいえこれまでずっと宝貝での戦闘が続いていた彼らに丁度いい武器などすぐには用意できず。そこで名前はせめて、と自身と父南宮括の剣を彼らに相応しいよう研ぎ直すことにしたのだ。
 周が誇る鋳物師に研ぎ直してもらった剣。重さも感触も彼らの好み通りに仕立てたつもりだ。とはいえ実際に使ってもらっているのを見るのとではまた感想も違う。
 だから、嬉しかった。少しでも彼らの力になれたのがーーその想いに報いることができたのなら。
 そう言うと、天化は少し困ったような顔をした。

「なんか貰ってばっかで悪いな……」

 頭を掻く様子からは本当にーー心底そう思っているのだと伝わってくる。
 名前は慌てて「いいえ!お気になさらず!」と手を眼前で振った。これは自己満足だ。名前が好きにやったこと、彼らに恩義を感じてもらいたいわけじゃない。

「わたしはもう充分です!それに……天化どのからは御守りもいただいてますし」

 名前は自身の胸に手を当てた。その懐には以前ーー仙界大戦が始まる前に彼から譲り受けた御守りがある。
 使いかけの煙草の箱。なんの変哲もないそれだが、名前にとっては心強い味方だった。
 戦いが終わったら返そう。そういう約束であったのだけれど、その後の後始末もあって長いこと返しそびれていた。
 申し訳ないことをした。つい嬉しくて、……手放しがたくて。心のどこかでそう思っていたからこそ、きっとなかなか言い出せなかったのだろう。
 とはいえ約束は約束だ。そう、覚悟を決めて先日詫びたのだが……。

「でもそれは前の戦いであげたんもんだ。大体俺っちはそれより前に名前から御守り貰ってるし」

 その日も彼は「それは名前にあげたものだから」と言って受け取ってはくれなかった。「どうせなら次の戦いでも連れてってくれ」そう笑って。
 それに加え、目の前の天化は腕輪を指し示した。ずっと前、名前が贈った柳の枝を。風雨に曝されてきたにも関わらず、不思議と色褪せた様子のない、名前の願いの一端を。

「それはそう、ですが……」

 持ち出されて、名前は言葉に詰まった。確かに、物々交換というなら彼の言い分は尤もだ。
 だが、名前の心情としてはそうはいかない。受け入れがたい。だって彼からは目に見えないいくつもの幸福を貰っているのだからーー。

「でもやっぱりお気になさらないでください。どれもわたしにとっては当然のことなのですから」

「そうは言ってもなぁ……」

 納得がいかない、と彼は顔を顰める。口を尖らせた表情は子供のようで、なのに彼の端正な面立ちにはよく映えた。こんな時なのに、名前の口許が綻ぶほどに。
 そうしてしばらく思案した後。
 天化は「そうだ!」と手を叩くと、名前を手招いた。

「なんでしょう?」

「いいから、」

 明らかにしようとはしない彼に首を傾げつつ。けれど名前は素直に歩み寄った。
 天化はといえば笑ったまま。名前の肩を掴むと、ぐるりと背中を向けさせた。

「えっと、」

「いいから、じっとしてて」

 洩れる戸惑いの声。しかしそれもすぐに封じられる。背後から耳許に落とされた囁きによって。
 道士の術にでもかけられたみたいだ。そんなことを冷静に考える自分がいるのに、体はもう手元にない。名前の意識下から外れ、固まったまま。こんなことで、と思うのに、名前の頬は熱を帯びていた。

「……よし、できた」

 その声で。ようやっと名前ははっと我に返る。強張っていた肩がほどけ、身動ぐことができた。
 数秒か、数分か。わからないけれど、たぶんそう長い時間は経っていないはずだ。
 けれど記憶も感覚も抜け落ちていて、名前はおずおずと天化を見上げた。

「いったい何を」

 されたのですかーー?
 そう聞こうとして、後頭部に違和感を覚えた。違和感、というより変化というべきか。なんだか先ほどまでとは違う感じがあって、天化を窺い見たのだけれど。

「うーん、なんかちょっと違うな……」

 彼は彼で他のことが気にかかっているらしく。名前を見たまま、難しい顔をしていた。名前を、その目よりも上のーー頭のあたりを見て。

「……?」

 視線を辿り、名前は手をやった。後頭部に、先刻楊ゼンが触れた辺りに。手を伸ばし、そうしてから自身の変化の原因を知った。

「これは、」

 指先に触れる覚えのない布の感触。それから、天化の額が露になっていることに気づきーー名前にも彼のしたことの察しがついた。

「楊ゼンさんみたく器用にできなくて悪い、」

 それは彼にも伝わったらしい。
 決まり悪そうに頬を掻きながら、天化は口を開いた。

「お下がりばっかだし、名前がくれたもんには到底釣り合いっこねぇけど。……受け取ってくれると、嬉しい」

 そう言って。
 彼は仄かに笑った。天つ空のような瞳を蕩けさせて。頬を桃色に滲ませて。
 笑う姿に、名前の心臓は音を立てた。

「……充分です。これだけで、わたしはきっと、」

「……うん。……俺っちも、おんなじだ」

 名前に言えるのはそれだけだった。やっとのことでそれだけを言葉にした。これだけで戦える。これだけできっとーー勝利を掴むことができる。
 最後まで言うことはできなかったけれど、天化は「わかっている」と頷いた。自分も同じ気持ちだから、と。
 言って、彼は名前を抱き寄せた。

「……あんたは、生きて」

 掠れた声が名前を掻き抱く。縋るような色で、響きで。希う言葉に、胸が詰まった。
 「あなたも、」そう答えた声は震えていたろう。でも隠すことはしなかった。したくはなかった。願いをーー言葉にできない奥底の願いを知っておいてほしかった。
 ーー彼には、生きてほしい。
 それが例え彼の意に沿わぬことだとしても。それを彼に望むことができなくとも。せめて、想いだけは知っておいてほしかった。
 その言葉が、彼にどう映ったかはわからない。
 ただ、ちいさく頷く気配だけはあった。

 だから、名前も彼の願いに応えなくてはならない。

「いいか、よく聞け!あっちの方が数は多いが臆することはねぇ!それから無駄な殺戮は慎めよ!用があんのは妲己だけだ!!」

 天化と別れ。武王の後ろで軍を率いて、名前は思う。声を張り上げる武王の背中をーーいつの間にか大きくなった王の背中を見つめながら、思った。
 もう昔のようには在れない。王の身だけを考えこの体を使うことも。勝利だけを考えることも。もうできそうにないと確信した。
 弱くなったと人は言うかもしれない。でも違うのだと名前は言いたい。護るものが、大切なものが増えたということは強さに繋がるのだと。誰にでもなく、ただ己に示してみせたかった。

「背中は任せたぜ、名前」

「はい」

 目配せに顎を引くことで答える。
 今の武王は、車に載せた文王の木主に恥じぬ面構えをしていた。ーーもう、名前が護るばかりの人ではないのだ。

「よっしゃ今だ、行くぜ!!!」

 武王の号令に合わせ、馬を駆ける。
 殷周革命、最後の戦いが始まったのだ。