魔王


 その日も彼女は屋上にいた。

「何してんだ、こんなとこで……」

 ただし、地べたに寝転がって。
 ここは屋上だ。どこにでもある、ありふれたマンションの屋上。磨き上げられた大理石の床ではないし、高価な絨毯が敷いてあるわけでもない。なんの変哲もないマンションの屋上は土足に踏み荒らされ、独歩には薄汚れて見えた。
 しかし少女はそうとは思わないらしい。

「あら、存外気持ちいいわよ。“完全なる”草原と言ってもいいくらいに……清らかなベッドに瑞々しい香り、こここそが永遠にして不動の世界なの」

 目を開けた名前は陶酔の滲む声で語った。この世界をイデア界だと。死んだように横臥していた少女は夢見心地でそう語った。
 しかし彼女は確かに生きていた。生きて、言葉を交わしていた。間違いなく独歩の足許で呼吸をしていた。
 そうでなければ、独歩という自我がここにあるはずもない。
 思い至り、改めて胸を撫で下ろす。
 そう、独歩は安堵していた。自分でも気づかぬうちに。驚き、怯え、安息を見出だしていた。目を閉じ横たわる少女を見つけたことに。その少女がピクリとも動かぬことに。少女が独歩に応え、唇を震わしたことに。
 安堵していた。けれど、それを露とも見せるわけにはいかない。だから独歩は「またそんな屁理屈を」と呆れたように言ってやった。
 そうして膝をつき、なんでもない顔で、なんでもない風を装って、名前の胸が上下していることを確認した。
 それを知ってか知らずか。
 名前は猫のように目を細めた。

「屁理屈じゃないよ。言うならばこれは……そう、助言。あるいは暗示のようなものかな」

「はぁ?」

「さらに言い換えるならヒントってところかしら」

 助言。暗示。ヒント。その言葉の意味自体は理解している。……つもりだ。
 だが彼女の用いたそれらが何を指しているかまでは思い当たらなかった。独歩の記憶が忘却という病に冒されていない限り、それ以上はないだろう。
 だが引っ掛かる。簡単にそう断じてもいいものか。本当はもっと何かーーやるべきことがあったのではないか。何故だか無性にそう思えて仕方なかった。大事なことを忘れているのではないかと翳りを抱かずにはいられなかった。
 とはいえ意識が沈黙を守っているのも事実。座りの悪さがあるとはいえ、今は横に置いておくしかないだろう。
 独歩は考え、「まぁなんでもいいけど」と口を開いた。なんでもいいとは毛ほども思っていないと丸わかりな空気を纏いながら。

「ここがどこだろうが……外に違いはない。そんなところで眠るなんてどうかしてるだろ」

 夏場とはいえ今は夜半。風邪を引くかもしれないし、何より警戒心がなさすぎる。そんなこと、名前の少女らしい容貌を見れば誰だって思い至るというのに。

「……そう、ね」

 名前は最初、虚を突かれた顔をした。大きな硝子玉は見開かれ零れ落ちそうなほどであった。
 彼女が破顔したのはその後だ。驚いてみせた、その後で。彼女は擽ったそうにーーあるいは眩しいものでも見たように笑ったのだった。

「……なんだよ」

「いいえ、なんでも……ただ、嬉しかっただけ。忘れていたことを思い出させてくれたからーー」

 ありがとう、と。見上げてくる黒曜石の目からは神の息吹さえ感じられて、独歩は思わず目を逸らした。それでも灯火というのは視界の隅でも明々と燃えるもので。だから名前が「でも、」と言葉を続けてくれたことにほっとした。ーーこの瞬間だけは。

「でも、私は眠っていたわけじゃないの。本当は……」

「……本当は?」

 問い返しながら、独歩は内心嫌な予感がしていた。それはきっと本能というべき代物だろう。警告音。それ以上は聞いてはいけない。本能がそう叫んでいたのだ。
 だというのに、独歩は聞き返してしまった。それもまた、本能に導かれて。あるいは定められた通りに。独歩は深淵に手を伸ばしてしまった。
 「本当は、」そう言う少女の唇の動きがいやにゆっくり見える。

「私はもうここにはいないのかも。あなたが人だと思ったものはただの人形だったかもしれないし、例え人だとしてももう息はしていないかもしれないわ。こうして語らっているのすらあなたの世界の話で……」

 言葉に。頭が冷ややかに殴られ、血液が音を立てて逆流する。
 酔いから醒めたような心地。もしくは夜ひとりで鼓動に耳を澄ませた時のような。
 それは途方もない刑罰であった。刹那の苦痛は死の床と同義だった。そして木々は枯れ果て、夏は終わりを告げた。
 無論それも錯覚に過ぎないのだが。

「……だけど、お前の膚はプラスチックじゃないし、体温だってあるだろ」

 生暖かい風が吹いた。言葉は溶け、しかし彼女は微かに笑った。

「……なら、確かめてみて。すべての可能性が排除できるように、あなたの手で」

 名前が手を伸ばす。天に向かって、真っ直ぐに。けれどその手が自分から独歩に触れることはなかった。
 目の前で静止した指先。簡単に手折れそうな手首から伸びたそれは人工物には程遠く。桜貝の爪も白磁の肌も神の産物としか思えなかった。
 ーーそれでも。

「……なんだ、やっぱり温かいじゃないか」

 独歩は応えた。それが彼女の望みなら、と。柔らかな肌に触れ、温もりに触れた。
 それに目を瞬かせたのは名前だ。望んだのは彼女であるのに、驚いたという風で独歩を見上げた。自身の手を引き上げるように掴む独歩を見た。
 そうしてから、彼女は目を細めた。

「……あなたは、顔という他者がいなくても“そう”なのね」

 それは懐かしがるような響きをしていた。喜色を滲ませた語調で名前はひとりごちた。
 彼女の言葉は独歩には覚えのないものだ。そのはず、だというのに、その表情は独歩の中の何かを揺り動かした。その顔をかつてどこかで見たような気がする。そう思った。思った、けれど。

「……っ、」

 回顧を阻んだのはいつかと同じ痛みだった。ノイズが走り、思わず頭を押さえた。彼女の手を離して。

「大丈夫?」

 そう訊ねる声も遠ざかる。

「今日はもう遅い。帰った方がいいよ」

 待ってくれ、と独歩は言った。言った……はずだ。
 けれど感覚がない。体と意識が解離し、視界がぼやけていく。

「またあした」

 襲うのは、抗いがたい睡魔だった。