万霊節のための連祷
その日も彼女は屋上にいた。
傍らに蓄音機を置き、ぼんやりと空を眺めながら。思索に耽っていた名前だったが、独歩がやって来たのを認めると、目許を緩めた。
「こんばんは、観音坂さん。今日も今日とて疲れきったって様子ね」
「ほっといてくれ……」
言った側から溢れる欠伸。余程疲れているんだろう。他人事のように思い、自嘲する。
要領が悪いのかなんなのか。いつもいつも仕事に追われているし、いつもいつも謝ってばかりだ。そんな自分がほとほと嫌になる。が、生まれ持った気質というものはどうしようもない。何もかも悪いのは自分で。バカみたいに頭を垂れるしか能がないのだ。
そう考えるだけで鬱々としてくる。しかしだからといって眠れるわけではない。睡魔は変わらず脳内に垂れ込めているが、逆に目は冴えるばかりで気持ちのいい眠りは程遠い。
そうでなくても足許にはいつだって不安という影が横たわっているのだ。独歩が何も考えずに眠れるのは、疲労に追い詰められた体が意識をなくす選択をした時くらいだった。
とはいえそんな格好の悪いこと、年下の少女に言えるはずもなし。
「じゃあお話でもしましょうか。少しでも気が紛れるように」
なのに名前はすべてを見透かしたような目で独歩に笑みかける。
けれど不思議と違和感はなかった。彼女なら何もかもを理解していてもおかしくない。心のどこかでそう思う自分がいた。
だから恥じらうことも怯えることもなく、独歩は顎を引いた。「そうだな」と答え、彼女の隣に腰を下ろした。いつかの夜と同じように。
そうして、蓄音機から流れる旋律に耳を澄ませる。
「……万霊節の連祷か」
「そう、」
人の心を安らぎへと導く音色。鎮魂を祈る澄んだ歌声。柔らかで穏やかな音の連なりに、自然、独歩の体からも力が抜けていく。
すべての魂よ、安らかに眠れーー。
それは自身に宛てられたもののようであり、恐らくは名前にも向けられた祈りでもあったのだろう。それがわかるくらいには独歩も鈍くはないつもりだった。
だから独歩は少女の少しばかり弾んだ声にふっと頬を緩めた。
「こういうの、好きなのか」
「嫌いじゃないよ」
あなたは?と返され、一瞬躊躇う。
好きか嫌いか。それが簡単な問いだったのはいつまでだろう。幼い頃はもっと自由に答えられたように思う。でもいつしかそこには周りの目だとか自身への評価だとか、そういった下らないものが加味されるようになった。
それはこの問いについても同じで。独歩の喉は渇き、言葉は真っ直ぐ出てこなかった。
「……まぁ、嫌いではない」
言えるのは精々このくらい。似合わないとか音楽性の違いだとか、そういうのが頭を過ってしまうのもどうしようもないことだった。
しかしそれすらも名前には見抜かれているらしい。
「そういえば観音坂さんは音楽をやってるんだったっけ」
知ってたのか。
そう言った声は上擦り、視線は地面をさ迷う。
こういうことを吹聴した覚えはないのだが……、あぁでも、彼女には話したことがあるのかもしれない。だって今ではもう出会いすらも曖昧になっているのだからーー。
そうぐるぐると思考を巡らす独歩はよほど愉快な様相をしていたとみえ。
「もっと胸を張ってくれてもいいのに。素敵なことよ、あなたにしか創れないものがあるっていうのは。だってそれは世界にあなたを認知させるってことだもの」
名前は歌うように言った。
その声音は何かに焦がれる色をしていて。独歩は思わず目を上げた。目を上げて、名前という少女を認知した。
「……素敵なことよ、あなたという存在を確立させてくれる人がいるっていうのは」
名前の目。黒曜石の階段は夢見るような眼差しをしていた。その口許には笑みが宿っているというのに、独歩にはヴァイオリンの啜り泣きに思えて仕方なかった。
「……じゃあ、創ってやるよ。お前のための歌を」
だから。
だから独歩はらしくもなくそんな台詞を吐いてしまった。
咄嗟に、だった。それでも気恥ずかしさは拭えず。恩着せがましい物言いとなってしまったのに内心悔いたのだが。
「……それは、豪華すぎる副葬品ね」
たおやかに。雪のように。名前は目を細めたのだった。
嬉しい、とその声音からも纏う空気からもわかる。言った当人である独歩が驚き、たじろぐほどに。
「……けど、お前の好みに合うかはわからないからな。先に言っとくけど挽歌には程遠いから」
口早に言い募るのは動揺している証拠だ。その内容だって保険をかけているようなもので、格好つけたのが台無しだった。
頬に熱が集まっていくのがわかる。し、しどろもどろになるのに沈黙が怖い。今すぐ叫んで逃げ出したいくらいだ。もしくは穴を掘って埋まっていたいくらい。
だというのに、名前は微笑ましげに独歩を見ていた。
「私の好みなんていう一貫性のないもの気にする必要ないよ。例えば……そう、冬の旅なんかも嫌いじゃないし。観音坂さんらしい鬱々とした楽曲でも大歓迎よ」
「……それ、さりげなくバカにしてるだろ」
「そんなことないわ。あなたという存在、性質……含めて私は、」
嫌いじゃないよ、と。
体育座りをした膝の上に顎を乗せて。長い髪を天の川のように煌めかせ。
名前はうっそりと微笑んだ。
それは間違いなく芙蓉に例えられる顏であった。花明かりのごとき微笑であった。
美しいと思った。確かに、そう。
「…………、」
思ったのに、その表情すら夜に蝕まれていく。
影が落ち、輪郭は溶け、境界すらも曖昧になって。
「……今日はもう遅い。帰った方がいいよ」
そう言った声が台本でも読むかのようだと思ったのだけれど。
「またあした」
突き放され、独歩は今日も闇に落ちていった。