アヴェ・マリア


 その日も彼女は屋上にいた。

「今度は天体観測か」

 毎度のことだが突拍子もない。というか、そんな本格的なものまで持っていたのか。
 独歩が呆れながら声をかけると、名前は望遠鏡から顔を離した。

「あら、だって今夜はこんなに星がきれいなのよ」

「星が……?」

 名前の目に嘘はない。冗談を言っているのでも、揶揄っているのでもなさそうだ。
 だから独歩は訝しみつつも彼女に倣った。肉眼で空を仰いだ。
 見えるのは都会の煤けた空ーーそのはずだった。少なくとも、独歩の知る空とはそういうものであった。
 けれど。

「ね、きれいでしょう」

「あぁ……」

 今、目の前に広がるのは。
 一粒一粒が露のように流れ落ちる星躔だった。夜闇の天幕は宝石に綾取られ、神の御手によるものだと思わざるを得なかった。
 降り注ぐ星の霰。流星群。それは毎年毎年独歩の気づかぬうちに通り過ぎていった現象で。しかしこれほどまでに明瞭なものが見れるとは思ってもみなかった。

「すごいな、こんなよく見えるなんて」

 無意識のうちに零れるのは感嘆の溜め息。表情は取り繕うことを忘れ、独歩はただ呆然と夏天を見上げた。
 端から見れば滑稽であろう。けれど何故だか名前は頬を緩めた。幼子を見るような、そんな目で。

「……なんだよ」

 決まりの悪さからそう聞いても、「いいえ、なんでも」とはぐらかされるばかりで。

「ただ、こんなところでも悪いことばかりじゃないってこと」

 弾んだ調子で歌う少女。翻る真白いスカートの裾に宿る華燭。その目映さに、否が応でも惹きつけられる。
 だから独歩は「そうだな」と首肯した。
 確かに、悪いことばかりではない。こんな儘ならない世とはいえ、嫌いになりきれないのは、きっと普遍的な美が世界に溢れていることを知っているからだろう。それは命を燃やす星の流れであったり、踊る少女が描く婉然とした絵画であったり……。そうした神の残り香に触れるたびに、気宇壮大となった。嫌なことばかりに頭を悩ませていたのがバカらしく思えた。
 その点で考えればこの出会いも幸いだったのかもしれない。彼女にとってがどうだかは知らないが、少なくとも独歩にとっては。

「どうかした?」

「いや……」

 ……なんてこと、馬鹿正直に言えるはずもないのだけれど。
 独歩は目を逸らし、言葉を探した。「そういえば……」腹を探られるのを避けようと、頭を巡らす。そういえば……そうだ、思い立ち、名前を見る。

「これって何の流星群なんだ?」

 確か、と既に色褪せた記憶を手繰る。時間に追われまともにニュースもチェックできていないが、みずがめ座δ流星群やペルセウス座流星群が夏の恒例行事だったはずだ。だが例年通りならばその二つが晩夏に見られることはない。
 ならばそれ以外に何かあったろうか。
 独歩は眉間に皺を寄せて脳内の宮殿をひっくり返してみた。
 が、専門でもないこと、疲弊した脳には焼きつけられていないらしい。いくら家捜ししてみても欠片すら見つかりそうもなかった。

「……さぁ、なんだろうね」

 独歩は真面目に考えていた。
 いや、それが思い出せなかったからといって支障がないことはわかっていた。それでも据わりの悪さは喉に小骨が刺さっているかのようで。何故だか無性に明らかにしなければならないような気がしていた。
 なのに名前はまた煙に巻く。
 なんだろうね。明眸を悪戯っぽく瞬かせ、名前は白々と笑った。

「でもなんでもいいじゃない、きれいなのは変わりないんだから」

「そう、かもしれないけど」

 でも納得がいかない。し、もどかしさが胸を突く。もやもやとした霧がかかる胸中。眉間に刻まれた皺は増えていく一方だ。

「……けど、名前は重要だろ。存在を定義するためにも」

「まぁ、そうね」

 名前はあっさりと頷きながら、「でも、」と言葉を続けた。でも、私は。その瞳は黒々としているはずなのに、独歩には抜き身のナイフのように映った。鋭く、ーー痛々しい、それ。けれど白刃の向かう先は独歩ではなく。

「もっと早くに認めたかった。死にゆく時に定義されるのではなく。もっと早くに“他でもない私”になりたかった」

 ーー人は。
 かけがえのない存在だと世間は言う。かけがえのない、一人一人が代わりのきかない人間であると。
 だが、実際はどうだろうか。
 例えば独歩が朝一番に退職届を出したとして。それで会社は困るだろうが、しかしその痛みは一時的なものでしかない。そのうちに替わりの者が配属されて、それで恙無く世界は回っていく。
 だからといって引き留めるのは“かけがえのない存在”の意思を蔑ろにすることだ。それはもうかけがえのない存在とは言えないだろう。
 所詮人は歯車でしかなく。誰にでもできて、けれど代わりのいないものなど人間にはたったひとつしかない。
 ーーそれが死だ、とかつて哲学者は言った。
 その言葉を反芻しながら、独歩は口を開く。

「……だから、飛んだのか」

 半ば確信を持って。独歩はかつて落ちていった少女に問い掛けた。
 少女はーー名前は、薄く笑った。忍びやかに。……悲しげに。
 名前は笑って、「そうかもしれない」と言った。その答えは曖昧なものであったけれど、独歩にはわかる。ーーだからこそ、わかった。

「自分の死……それだけは自分にしかない、唯一絶対のもの。だから、お前は、」

 死んだのかーー、と。
 独歩には最後まで言うことはできなかった。できなかったけれど、彼女の微笑が答えだった。
 死。その瞬間、ようやく人は自分という個を取り戻す。なのにそれはすぐに霧散し、後に残るのは絶対的な無だけ。
 ーーそれでも、名前は飛んだのだ。

「……、」

 その時を思い、独歩は目眩がした。
 くだらない、と断じることができたらどんなによかったろう。けれど彼女の手を引き留めたのは、他でもない独歩で。自分には一蹴することも無視することも、まして導いてやることもできそうになかった。
 言葉をなくした独歩を、しかし名前は責めることも突き放すこともなく、静かに見つめた。いつの間にか雨は止み、辺りを静寂が支配していた。
 そして、名前は。

「……でも、後悔はないよ」

 そう言って。
 名前は、独歩の手を取った。
 その手は存外温かく、そして思っていた通りに頼りなかった。あえかな指先はそれでも独歩の手を握り、その温もりを分け与えてくれた。
 独歩は名前を見た。名前も独歩を見ていた。視線が交じり合い、確かにこの瞬間、互いが互いの存在を認めていた。
 それだけで十分じゃないかと独歩は思った。
 ……たぶん、名前も。

「観音坂さんが手を引いてくれたこと、本当にうれしかった。あなたには悪いことしたって思ってるけど。それでも……、」

 ありがとう、と。
 一番にそれを伝えたかったと名前は言った。その目には言葉通りの喜びと、それから悲しみが横たわっていた。そしてそれは独歩にとって覚えのある色でもあった。
 過る記憶。落ちていく影。咄嗟に伸ばした手。それからーー

「……っ、」

 独歩は痛みに頭を押さえて踞る。
 脳内に溢れるノイズ。耳鳴り、目眩。ガンガンと揺さぶられる感覚と頭を貫く激痛に、吐き気さえ覚えた。
 それは独歩が記憶を遡るのを押し留めようとするかのようで。
 蜘蛛の糸を掴もうとするのだけれど、そのか細い手掛かりは痛みに取って代わられていった。

「だから、今はおやすみ。きっと私があなたを帰してあげるから……」

 そんな独歩の体が、不意に柔らかなものに包み込まれる。柔らかで温かで……母のようなそれに。
 包み込まれ、慈愛に満ちた声を聞いたところで、独歩の意識は遠退いていった。

「……また、あした」

 その声が震えているようだったのに、独歩にはどうすることもできなかった。