憂愁


 その日も彼女は屋上にいた。
 そのことに独歩はわけもなく安堵する。何故だろう。何か気掛かりがあったような気がするのだが……。
 しかしそれを思い出すより早く、独歩はふと生まれた違和感に気を取られた。違和感。正確には変化と言うべきか。

「どうしたんだ、そんなにめかし込んで……」

 常ならば。
 飾り気のない制服を身に纏っているのが名前だった。独歩でも知ってる高校のそれは少女を常識という型に押し込め、品行方正というレッテルを貼りつけさせていた。まるで個というものなどどうだっていいとでも言うかのように。
 しかし今日の名前は違った。
 風に靡く白のワンピース。それは清純さを際立たせ、しかし肩口の露出が堅苦しさを打ち消している。健康的な足許も少女に自由を与え、常とは違う空気を生んでいた。
 だから独歩は訊ねた。こんな夜更けに一体どうして、と。何か用事でもあるのかと訝しんだ。
 けれど。

「……ほんとだ」

 目を丸くしたのは名前も同じだった。むしろその色は独歩よりも濃く、彼女は長いスカートの裾を摘まみ、まじまじと自身の体を観察した。

「ほんとだ、って……なんでお前が驚いてるんだ……」

 まさか勝手に着替えさせられたとでも言うつもりか。
 あくまで独歩は冗談のつもりで言った。何せ彼女の言葉は人を煙に巻くものが多い。その経験から独歩はこれも揶揄われているのだと、そうした類いのものだろうと推察したのだった。
 しかし名前は、「似たようなものじゃない」と目笑した。
 似たようなものじゃない。それは、同意を求める響きで。

「それは、どういう……」

 意味なんだろうか。そう、独歩は聞こうとしたのだけれど。

「なかなか興味深い……。うーん、こうなると姿見が欲しくなってくるわね」

 名前はスカートをためつすがめつ眺めるのに飽きたのか、何やら思案げな顔で顎に手をやった。神妙に口を開いた独歩のことなど置き去りにして。
 名前は考え込んだかと思えば、すぐに「うん、」と一人頷いた。

「やっぱり用意しよう。こんな機会、もう二度とないだろうし」

「だから一体なんの話を、」

 言いかけた時。視界の隅で何かが光った。……ような気がした。
 確証はない。が、体は勝手に正体を見極めようと首を回した。
 そして、独歩は目を見開いた。

「な……っ、」

 独歩の隣には塔屋があった。この屋上への唯一の出入り口。なんの飾り気もない剥き出しのコンクリートだったそれ。独歩の記憶では確かにそのはず、だったのだが。

「ガラス張りって……さすがにおかしくないか」

 今目の前にある塔屋は、その扉は、いつの間にか鏡のようになっていた。
 記憶との解離。齟齬は鮮烈で、目眩がする。
 ーー俺は夢でも見ているのか。
 頭を押さえる独歩に、しかし名前は「そう?」と小首を傾げた。

「なんにもおかしいことなんてないよ」

 反論を封じる声。言葉はあまりにはっきりとし過ぎていて。
 独歩は、答えに窮した。

「……けど、これは夢じゃない。そのはずだろ」

 だってまだ目覚めてない。目覚めてないのに、これが夢であると断言することはできない。
 しかしこの抵抗は細やかすぎた。

「それは夢の否定にならないわ。……わかっているでしょう?」

「……そうだな」

 独歩にもわかっていた。
 夢と現実。その区別はただ中にある者にとってあまりにも難題であった。だってそうだろう?夢から覚めなければ、それが夢であったと思うこともできないのだから。自分の来歴も記憶も、ただの幻に過ぎないのかもしれないのだからーー。
 だからもう、独歩に反論の余地はなかった。だからこれは名前の勝ちだ。邯鄲の夢。あるいは胡蝶のそれ。彼女の主張が肯定され、この世界はただの夢幻と化した。
 けれど。

「どうしてあなたがそんな顔をするの、」

 名前はちっとも嬉しそうじゃなかった。眉尻を下げ、瞳を揺らし。切なげな表情で独歩に手を伸ばした。
 泣きそうよ。そう彼女に言われ、初めて独歩は自身の胸が痛いほどに締めつけられているのを知った。切ないのも苦しいのも独歩の方だった。

「どうしてって……俺が聞きたいよ……」

 わけがわからないのだって独歩の方だ。頬に触れる少女の指先に泣きたいほどの切なさを覚えるのも。それでいて温もりに喜びを覚えるのも。わけがわからなかった。わけがわからないけれど、不思議と心のどこかでは納得してもいた。
 しようがないじゃないか。だって、“あんな出会い”をしたら誰だってーー。

「……もう、お人好しなんだから」

 情けない顔をしているだろうに。
 なのに名前は、仕方ないなぁとでも言いたげな調子で、しかし愛しむような目で独歩を見つめた。

「冗談だよ、……冗談に決まってるじゃない」

「そう……だよな」

「そうそう。じゃなきゃ私も困るし」

 名前は手を離し、ひょいと肩を竦めた。
 私も困る。その言葉の真意が気にかかったが、それはまぁ些細なことかと思い直し。独歩はもう一度「そうだよな」と頷いた。
 そうなると彼女に揶揄われ、馬鹿正直に動揺していた自分が気恥ずかしくなってくる。

「まったく、大人を揶揄うんじゃない……」

「ふふっ、ごめんなさい。でもあなたの反応があんまりにも素直だから嬉しくて」

 名前は悪戯っぽく笑い、スカートを翻した。踊るような足運び。くるりと回る髪は星の輝きを宿し、きらきらと瞬いていた。

「なんかやたらご機嫌だな」

「だって嬉しいんだもの」

 囀ずる名前の微笑は大人びているようで、けれどいたいけな純真さも持ち合わせていた。それを見つめる独歩の目が思わず緩むほどに。

「それにしても意外だったわ。観音坂さんはもっと大人の女性が好みなんだと思ってた」

「はぁ?」

 だが思いもがけない言葉に、独歩の目はすぐに点となった。何を言っているんだ、藪から棒に。独歩は呆れたのだけれど、名前は気にした風もなくむしろ笑みを深めた。

「だって好きなんでしょう?こういう格好が」

 淑女の礼といった風に名前はスカートの裾を持ち上げる。誘うように、というよりは無邪気に。色を含ませず、子供のような表情で独歩を見、それから姿見を覗き込んだ。

「なるほどなるほど……、観音坂さんは清楚な女の子がタイプなのね」

「…………」

 濡れ衣だ。そう言いかけて、独歩は口をつぐんだ。
 抗議したとしてもきっと名前には通用しない。そんな予想が独歩を躊躇わせたのも確かだったけれど、それ以上に。

「……まぁ、悪くはない」

 似合っている、とは言えなかった。これが精一杯だった。そしてそれがすべてだった。すべてであり、今の本心だった。
 それだけであったのだけれど。

「……そう」

 名前には充分、だったらしい。擽ったいといった様子で口許を綻ばせた。僅かに紅潮した頬。高鳴りを抑えられない声。彼女を彩るものが何よりその喜びを如実に表していた。

「……だからってそれが好みってわけじゃないからな」

 言い訳がましいとは口にしながらも思ったのだけれど、言わずにはいられなかった。
 ただそれは名前にも勿論伝わってしまっている。照れ臭いだけなのだと。その証拠に、彼女は一層その微笑みを濃くした。

「わかってるよ、ちゃんと。観音坂さんは年下もオッケーってことよね」

「全然わかってないだろソレ!!」

「もう、怒らないで。これも冗談なんだから」

 仕草だけは淑やかに名前は肩を震わす。独歩も独歩で不服そうにしながらも、楽しそうな彼女にほっとしていた。彼女はそうしているのが一番いい。泣いているのも諦めているのも似合わない。だってこんなにも美しく笑うのだからーー。

「……ふあぁ」

「あら、眠いの?」

「あぁ……」

 安心したからか。急激な眠気が独歩を襲った。
 またか。そう思いながら、片隅には仕方がないという諦めもあった。そういう風にできているのだから仕方がない、と。

「今日はもう遅い。帰った方がいいよ」

「……またそれか」

「仕方ないわ、それがあるべき形なんだから」

 去りがたいと、そう思っているのは独歩だけではないだろうに。

「またあした、会いましょう」

 あなたがそれを望むのなら。
 名前は言い添えて微笑んだ。どこか、寂しげな様子で。