子守唄


 その日も彼女は屋上にいた。

「“主よ、わたしの神よ。なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのかーー”」

 詩篇を朗々と読み上げる声。それに反して奏でられる歌詞は寒々としていて。

「……あら。こんばんは、観音坂さん。いい夜ね、……そう、『白い月』でも似合いそうなくらい、」

 けれど独歩を認め、振り返った名前の目許は和らいでいた。
 月を背に立つ少女。銀の光を帯びた輪郭。しかしその微笑に空々としたものはない。先刻の空気など嘘のように、名前は柔らかに独歩を見ていた。
 それにほっと胸を撫で下ろす。何故だか、知らず知らずのうちに。
 安堵し、それから独歩は首を捻った。

「白い月?」

 なんのことだ、という響きに、しかし名前は笑みを深めた。

「白い月と言ったら白い月ーー『La lune blanche』でしょう?“ゆったりと、やさしい和らぎが、月の渡りの虹色の空から降りてくるよう……”」

「……ヴェルレーヌか」

 そこまで聴かされて、疲弊していた脳も記憶を取り戻す。ヴェルレーヌ。フランスの詩人。『La lune blanche』も彼の作だ。
 “いまこそは妙なる時刻”ーー名前はそう言いたいのだろうか。
 その思いを込めて視線を返すと、名前は微かに顎を引いた。

「ええ。……そして、“さあいまは、夢見る時”ってね」

 確かに彼女は夢の産物のようだった。何もかもを見透す瞳は魔的であったし、形造るものたちも神の御業と思わざるを得なかった。風に靡く髪には星の息吹が宿り、繊細な所作には見る者の目を奪う力があったのだから。
 それに何より、彼女は独歩の知る誰よりも遠くにあった。遠くにあり、けれど触れられるところにあった。
 それこそが神である証なのではないだろうか。
 ……なんて、馬鹿げた妄想をしてしまうほどに。

「でも観音坂さんはヴェルレーヌよりランボオの方が“らしい”わね」

 そんな不思議な少女は独歩のことを揶揄うのがどうにもやめられぬらしい。
 地獄の季節の作者を引っ張り出して、名前は独歩を悪戯に覗き込んだ。その目はちかちかと瞬き、冬の夜空よりもずっと冴え渡っていた。

「そう言うお前だって似たようなものじゃないか。……聖書なんて、」

 だがただ揶揄われるだけというのは納得いかない。年下の少女に弄ばれて終わるのは、独歩としても受け入れがたかった。
 だから独歩はそう反論した。反論しながら、少女の手にある本に視線を走らせた。

「ダビデはお嫌い?」

「嫌い、ってわけじゃないけど……神なんて不公平なもの、信じたくないだろ」

 ダビデ。神を愛し、神に愛された男。ーー大罪を犯しながらも、神に赦された王。
 そんなの不公平だろう?神を愛するのも愛されるのも、選ばれた者だけの特権だ。それだけで人生を左右されるというなら、今すぐ死んだ方がマシじゃないか。
 独歩がそう言うと、名前は笑った。確かにね、と。笑いながら、「でも、少し驚いた」と肩を竦めた。

「観音坂さんがそこまで強く否定するなんて」

「いや、これは俺だけじゃなくて……」

 聖書。詩篇。そんなもの、……趣味の悪い。そう言ったのは誰だったか。たぶん、一番初めは独歩ではなくーー

「……なんでもない、思い出せないならそんな大事なことじゃないんだろう」

 記憶を辿ろうとして。何に妨げられたわけでもないのに、ある一点で独歩は立ち尽くした。
 壁があるというのでもなく、手を加えられたのでもなく。ただ、立ち尽くした。ある一点、そこから先に進めない。思い出そうとしても思い出せない。
 ……思い出せなくても構わないと、心が勝手に諦めてしまった。
 ーーけれど。

「……ダメよ、思い出さなきゃ」

 不意に、手を取られた。
 驚き、見下ろす。そこにいるのは勿論名前だ。彼女以外他にいない。そう、頭では理解している。
 なのに戸惑った。その真剣な眼差しに。必死ささえ感じる表情に。焦りを含んだ声色に。気圧され、戸惑った。

「名前……?」

「お願い、思い出して。あなたの大切なものを。どうか、思い出して」

 お願いだから、と。名前は縋った。独歩の手をきつく握り締め、瞳を揺らして。
 その空気に呑まれ、独歩も身を喰らおうとする諦念を振り払った。ひたひたと忍び寄る蔭から目を逸らし、時を遡った。
 聖書。詩篇。それを手に取った日のこと。それは今よりもずっと幼い頃のはずで、その時隣にいたのは、たしかーー

「……そうだ、」

 朧な像。結ぶ輪郭を逃すまいと手を伸ばす。独歩の隣、ずっと幼い頃から共にあった人のことをーー大切な幼馴染みのことを。手を伸ばし、掴み取った。

「思い出した。あの時、隣にいたのは一二三だ……」

 幼馴染みの友。彼は独歩が気紛れに手に取った本を見て、顔を顰めた。カミサマなんて、趣味の悪いヤツらばっかりだーー。そんな悪態をついた日のことを思い出す。
 その記憶は先程まで襤褸切れ同然だったとは思えないほど色鮮やかに蘇った。そんな些細な思い出だというのに、取り戻しただけで胸に熱が灯った。

「……よかった、」

 それだけで、名前は泣きそうな顔で目を細めた。よかった。心底安堵したという風で。名前は独歩を見つめていた。
 それだけで、独歩の心臓は音を立てた。息を吹き返したばかりみたいに忙しなく動き出した。

「忘れないでね、それだけは。あなたの大切な人のこと、真偽も善悪も越えた美しきもののことを」

 どうして名前がそんなに必死になるのか。独歩には皆目検討もつかない。……あるいは、そう思い込んでいた。
 だから彼女に訴えかけられ、一瞬躊躇った。それだけは忘れないで。ーー忘れないでいるのは、本当にそれだけでいいのか。躊躇った、けれど。

「わかった、約束する」

 それで彼女が救われるというのなら、受け入れよう。
 それだけを理由にして、独歩は名前と小指を契った。約束だ、幾度夜を重ねようと。気の遠くなるほどの時が流れようと。

「きっと、忘れないでね」

「あぁ……」

 応じながら、独歩は体を包み込む静けさに身を預けた。昨夜と同じように。それより前、繰り返される日々と同じように。

「それから、もうひとつ」

 降りていく幕の隙間、独り壇上に残った少女は囁きかける。

「これも参考にして。“人は目に映ることを見るが、主は心によって見る”ってこと」

「それはどういう、」

「……信じるべきものは、もうあなたの中にあるわ。だからきっと、もうじきに…………」

 この夢も醒めるでしょう。
 そう言った名前は穏やかに微笑んでいた。それでいてどことなく寂しげな気配もしていた。そのどちらも独歩の手の触れられるところにあるというのに。

「また、あした」

 宙を掻く指先。意識はシャボン玉のように弾けて……消えていった。