湖上にて


 不意に意識が浮上する。
 それは朝の目覚めに似ているようで、けれどそれよりもずっと明確なものであった。例えるなら、そう。テレビのスイッチが入れられたような感覚。目覚めは一瞬で、独歩は静寂の中に放り出された。

「…………、」

 夜の闇に浸された室内。無言で整列する見慣れた家具。
 独歩が身を起こしたのは、日々寝起きする自分のベッドだった。

「なんだ……?」

 けれど、何かがおかしい。違和感がある。
 そう思い、辺りを見回す。家具の配置は記憶通りだし、鮮やかなのは窓から細く伸びる月光くらいなものだ。それ以外はまったくの無音。みんな死に絶えたみたいに静まり返っていた。

 ーーみんな、だって?

 はた、と。思い至り、独歩は時計を見た。それから、窓の外を。
 時計は7時を指していた。窓の外は暗色で満たされていた。月明かりだけが頼りの世界だった。
 なのに、この部屋はあまりにも静かだった。ーー静かすぎた。
 そんなものだろうか、と一度は考えた。子供の騒ぐ声や隣人の息遣いや、そうしたものが聞こえてこないのが普通なのかと。考え、いや、と首を振った。
 そもそも、だ。
 そもそも、独歩がこんな時間に家にいることがおかしい。こんな時間に帰宅できるはずがない。では今日は休日なのだろうか。そう思い、携帯を見る。

「これは、」

 目に眩しい光の中。そこに刻まれた文字列。8月31日、金曜日。ということは平日で、独歩に休みが与えられるわけもなく。
 じゃあ何か特別なことがあったかと記憶を探るが、思い当たらない。それ以前に、眠る前何をしていたのかすら思い出せなかった。
 真実、独歩は世界に放り出されたのだ。足許は揺らぎ、今ここに存在することすら不確かで。呼吸をするのも意識しなければ忘れてしまいそうだった。自分という個が曖昧で、漠然としていてーー気が狂いそうだ。
 独歩は頭を振り、それから部屋を飛び出した。

「……クソッ」

 舌打ちも空しく響くばかり。真っ暗な廊下を抜け、扉を開く。
 外界には少しばかり秋が混じっていた。茹だるような暑さは過ぎ、仄かな爽やかさがあった。しかしそんな風が頬を撫でても独歩の焦りは引かない。

「どうなってるんだ……?」

 世界は正しく回っていた。月は空にかかり、星々は細やかに瞬いている。巡る季節。生き生きと輝く自然。
 なのに、およそ生と呼べるものがそこにはなかった。
 虫の羽ばたきも、動物の息遣いも。ーー人間も、気配すらなかった。

「嘘だろ……」

 呆然と呟く。けれどそうしたって目の前の光景は変わらない。居並ぶ建造物、そのひとつとして明かりの灯らないことは。
 外は停電にでも遇ったようだった。ビルもマンションもぬうっと聳え立つだけで、さながらタルタロスの群れである。それほどに人の気配のない影は不気味で、独歩の背を冷たいものが走った。
 けれどだからといって信じられるはずがない。そんな簡単に受け入れられるわけがない。
 独歩は唇を噛んだ後、思いきり地を蹴った。
 駆ける駆ける駆ける。夜の街を抜け、見慣れた景色の中を走り回った。
 ただひとり、生きている人間に会えたら。それだけが独歩の望みだった。それだけ叶えば独歩も安心することができた。
 ーーそれだけで、よかったのに。

「なんで、誰もいないんだよ……!」

 咄嗟に口から溢れ出た言葉にも反応はない。コンビニは閉店しているし、駅にも明かりはない。電車が走っている様子もなければ、勿論人とすれ違うこともなかった。
 独歩は唯一の拠り所である携帯をもう一度見た。8月31日金曜日、午後7時30分。
 変化なしか。独歩は肩を落とし、それからアッと声を上げた。
 ーー携帯なら、電話だってできる。
 そんな当たり前のことにも気づかなかった。気づいたとしても不安は拭えなかった。
 予感はした。けれど、独歩は震える指先で携帯を動かした。

「頼む、出てくれ……!」

 一二三、と洩らす声はらしくもなく。コール音にすら苛立ちを覚えながら、独歩は待った。
 けれど、電話は繋がらなかった。

「そういうもんだよな……」

 耳に押し当てていた携帯を下ろす。脱力。もうどうしたらいいのか皆目検討もつかない。し、どうにかする気にもなれなかった。どうにでもなれ。そんな破れかぶれな気持ちで独歩は空を仰いだ。乾いた笑い。空虚な心。満天の星空を見上げてーーもうひとつ、独歩は思い出した。

「……名前、」

 どうして今の今まで思い出せなかったのか。思い至らなかったのか。
 彼女なら。昨日も一昨日もその前もずっと夜を共にした彼女ならーーまだ、この世界にいるかもしれない。
 もう走れないと思った。思ったけれど、少女の微笑を思い出し、独歩はまた駆けた。
 駆けて駆けて駆けて。駅から自宅までの途中、高く聳えるマンションを目指した。その屋上を目指して、独歩は駆けた。
 そして。

「……名前ッ!」

 ガシャン、と音を立てて閉じるドアも気にせず。独歩は屋上へと転がり込んだ。
 祈るような気持ちだった。どうか、名前だけはーー。その願いだけは、どうやら果たされたらしい。

「あら、どうしたの観音坂さん。そんなに慌てなくたって私はどこにも行けやしないのに」

 名前は確かにそこにいた。いつもの屋上に、見慣れた微笑をたたえて。名前は確かに存在していた。
 そのことに、途方もない安堵を覚える。
 独歩は「あぁ……」と深い息を吐いた。あぁ、よかった。そう思った後で、独歩は目を疑った。

「なんで、そんなとこに……」

 名前は立っていた。月を背に……フェンスの向こう側で。吹けば飛ぶような頼りない体躯を夜の闇に曝していた。
 それを認めた瞬間、目眩がした。頭が痛い。記憶が重なる。過去といま、いつか見た少女の姿が明滅する。
 そうだ、独歩は見たことがある。深淵に呑まれていく少女を。その手が救いを求めて宙を掻くのを。見たことがあったのだ。
 独歩は蹲りながら、顔を上げた。痛む頭を押さえ、ひりひりと喘ぎながら。それでも見上げた。断崖絶壁で笑う少女をーー名前を見た。

「その様子だと、もう大丈夫そうね」

 名前は薄く笑い、けれどどこか寂しげな響きで独りごちた。
 どういう意味か。大丈夫なわけがあるか。そう非難を籠めて睨めつける。が、そうしても名前の微笑は崩れない。

「あなただって、本当は気づいているんじゃないかしら?だからあなたは目覚めることができた。いつもの夜とは違って。いつもの夜とは違う場所で」

 見たでしょう?と名前は視線を流した。屋上の先、深淵へと沈んだ下界を。生気のない世界を、なんの驚きもなく眺めた。

「この世界には誰もいないわ。私と……今はあなただけ」

「どうしてそんなことが断言できるんだ。もしかしたら、他にも……」

 無駄な抵抗だと心のどこかで思いながら、それでも独歩は言わずにはいられなかった。可能性を信じたかった。
 けれどそれは名前が静かに首を振ったことで露と消えた。あぁ、そうなのか。突きつけられた、どうしようもない現実。追い討ちをかけるように、名前は言葉を続けた。

「ここにはもう他に生きているものはいない。……この世界の主である私がそう定めたから」

 だから今ここにあるすべてのものが幻なのだと名前は言う。清かな星の輝きも、心地よい夜風も。ーー真白い微笑も。すべては夢で、ここで消えるのが定めなのだと名前は言った。

「じゃあ、俺は」

「あなたは……」

 一瞬。言い淀み、それから名前はまた真っ直ぐ独歩を見た。その目は大事なものを見ているのではと錯覚するほどに優しく。

「……あなたは、巻き込まれただけ」

 なのに彼女は独歩を突き放した。ごめんなさい。そう言われても、納得がいかない。
 だって、名前は。

「あの時、手を掴んだじゃないか」

 言うと、息を呑む音がした。ひゅう、と音がして、それから名前は目許を緩めた。「そう、やっぱり……」思い出したのね、と。そう呟いた名前の顔には喜色が滲んでいて。
 その姿が、いつかの少女と重なった。

「あの朝、お前は落ちた。混雑したホームから足を滑らせて」

「うん、……そして、私は」

 名前の口が動く。いやにゆっくりと。そして、私は。その言葉の続きは容易に想像がついて。
 独歩は、名前を遮った。

「俺は、掴んだんだ。落ちていくお前の手を、咄嗟に」

「……そう」

 その続きを聞きたくなくて。そう言った独歩を、名前は目を細めて見ていた。そうだよ、その通りだ。
 それから名前は「ごめんなさい」と眉尻を下げた。

「ごめんなさい、あの時私が握り返さなければ。……きっとあなたを巻き込むこともなかったでしょうに」

「……っ、そんなこと!」

「ないとは言えないでしょう?」

 否定は、できなかった。
 あの時名前が落ちなければ。それを独歩が引き留めなければ。……名前がその手に応えなければ。
 きっと独歩はここにいなかったろう。いつも通りの憂鬱な月曜日を迎えて、いつも通り世界中に頭を下げて。……幼馴染みと下らない話をして、尊敬する先生と共にマイクを手にして。そんな毎日が続いていったはずだ。
 それはかけがえのないものだと思う。独歩にとって数少ない……大切な、日々を生きる支えだった。
 それを引き離したのは名前だ。彼女が応えたからーー独歩もまた落ちていった。こんな深い闇の中まで。

「でも、お前だって好きで落ちたわけじゃないだろ……」

 だからといって、誰が責められよう。死の際、目の前の見知らぬ他人に救いの手を求めることが。それが罪と言うのなら、そんな世界に価値はない。少なくとも、独歩はそう思う。
 でもこの世界の主である少女は否と答える。

「あれは事故だった。たぶん、きっと。でも私は……諦めてしまったから」

 あの時、と名前は目を馳せる。
 あの時。人混みに押された時。ホームから体が投げ出される瞬間。名前は諦めたのだ、と。生きることを諦め、死ぬことを受け入れてしまったのだと。受け入れてしまったのに、独歩の手を掴んでしまったのだと。
 それが罪だと名前は言った。罪には罰を。救済の道はそれしかないのだと名前は言った。

「色々、試したの。あなたが眠っている間、この世界で。色々なことを……本当に気が遠くなるくらい、試してみた。でも、」

 あなたを帰すことはできなかった。
 だからごめんなさいと名前は頭を下げる。

「遅くなってごめんなさい。あなたを……“観音坂独歩”を確立するのに精一杯で」

 自己の確立。その言葉で得心がいく。
 これまでの夜。彼女と紡いだ音色。交わした言葉。彼女が独歩から引き出そうとこと。好きなもの、嫌いなもの、主義思想、……思い出。そうしたものを独歩が忘れないように、彼女は幾度も夜を重ねたのだ。
 そしてその傍らで、彼女は独歩をこの世界から救う道を探っていた。
 先刻とは違う意味で目眩がした。
 彼女は、たった独りで。この無音の世界で戦っていたのだ。赤の他人のことを。最期の瞬間手を伸ばしてくれた、ただそれだけの理由で。

「名前……、」

 何か言ってやりたかった。自身を責めるばかりの彼女に。気のきいた言葉をかけてやりたかった。
 けれど言葉は詰まり、音になることはなかった。激流。それが心臓から溢れて、喉を塞き止めた。同時に、苦しいほどの愛おしさも覚えた。月の光でほの白く綾取られた少女が神の遣いのようにさえ思えた。

「……でも、それも今日で終わり」

 なのに名前は冷淡な宣告をする。贖罪のために。今度こそ独歩を突き放そうと、白々と微笑んだ。

「さよなら、観音坂さん。ありがとう、あの時、手を掴んでくれて。ありがとう、……私に、恋を教えてくれて」

 きれいだった。痛々しいほどに真っ直ぐで、清らかな微笑。触れれば砕け散るだろう、儚い表情。夢見る乙女の顔で、名前は独歩を安心させようと笑みかけた。
 ーー待ってくれ。
 独歩はそう言った。待て、待ってくれ。そう言ったつもりだったけれど、震える言葉は空しく夜に消えた。
 ーー名前にはもう、届かない。

「あの瞬間、私は恋に落ちたの。だから、今度も。……この恋に殉じるわ」

 落ちるのは奈落ではない。恋なのだ、と。
 その微笑を絶望的な気持ちで見つめながら、独歩は手を伸ばした。

「待て、やめろ、いくな、」

「さよなら、……どうかこれがあなたにとって夢になりますように」

 独歩は駆け寄る。足を縺れさせながらも、必死で。歩を進め、いつかのように、名前に手を。

「…………っ」

 何もかもがゆっくりと流れていった。名前の体が傾ぐのも、涙の残滓が空を流れるのも、ーーその手が、視界から消えていくのも。
 それでも、独歩は手を伸ばした。



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