至福


 そして、独歩は手を掴んだ。あの時と同じように、あの時よりも早く。名前の小さな手を違うことなく掴み取った。

「くっ……」

 ガシャンとフェンスが揺れる。ギュッと心臓が押さえつけられる。喉が塞がれ、息が詰まった。

「どうして……」

 呆然とした顔。いつだって悠然としていた少女らしからぬ間の抜けた表情に、独歩は笑った。こんな時だというのに。おかしくて、愛おしくて……笑った。

「どうしてって……そんなの決まってるだろ」

 フッと。口端を持ち上げてやる。腕はつりそうなほど震えてるし、体はとっくに無茶だと叫んでいるけれど。余裕だと嘯いて、笑ってやった。

「お前が贖罪のためにそうするって言うなら、俺も俺がしたことの責任を取るよ」

 あの時。落ちていく名前の手を掴んだことに後悔はない。こうなった、今でも。時間を巻き戻したって同じ道を選択するだろう。
 そう、後悔はなかった。でもそれが名前をこの世界に引き留めてしまった原因だと言うのならーーそのためにもう一度彼女が死ななければならないと言うのなら。
 独歩はもう一度彼女の手を取る。この先にまた同じ日々が待っていたとしても、気の遠くなるほどの輪廻の先でも。何度だって彼女の手を取りたい。

「……どうかしてるよ、そんなの」

「そうだな、俺だってそう思う」

 耳障りな音がする。ギィギィと鳴るフェンス。警告の鳴り響く脳内。限界だ。この体も、世界も。
 それが名前にもわかったのか。

「離して……っ、お願い、今ならまだ、あなただけでも、」

 切羽詰まった声。なのにそれでもその澄んだ音色は美しく。独歩のことだけを想う瞳に心地のよさまで覚えた。
 だから独歩は「お断りだ」とすげなく却下してやった。歯を食いしばりながら、なおも手だけは離さずに。
 それでも世界はままならない。

「ぁ……っ」

 ふ、と。支えが失われる。ガラガラと崩れ去り、体は宙へと投げ出された。
 反転する視界。体を包む冷ややかな風。果てしなく広がる天蓋。
 皓月の残る紺碧の空。しかしその足許には橙色の焔が迫っている。行合いの空は眩しく、名前の輪郭も透かして鮮やかに染め上げていた。
 ーーあぁ、夜明けだ。
 風に身を切られながらも、独歩は名前を引き寄せた。落下は緩やかで、名前が戸惑うのも、観念したように目を閉じるのも、その手が背に回されるのも、全部全部独歩には伝わっていた。

「……お人好し」

 バカね、とでも言うみたいに。呆れた風に、それでも心底嬉しいと仄かに目許を染めて。名前が囁いた。それは不思議と風の中でもよく響いて、微かな震えすらも独歩には感じ取ることができた。

「お互い様だ」

 独歩はそう言って、目蓋を下ろした。舞台はもう終わった。壇上には誰もいない。名前も、誰も。
 独歩には腕の中の温もりがすべてだった。それさえあればいいと、この後に待ち受ける闇すらどうでもいいのだと思った。死も痛みも、怖くなどなかった。



 ふ、と。
 意識が浮上した。
 刹那、そこには無が存在した。自分とは、世界とは。隔たりなどないところから意識は生まれ、世界を認識した。

「ここ、は……」

 雑踏。喧騒。呆然とした呟きに、隣から胡乱げな眼差しが向けられる。
 そこでようやく独歩は思い出した。ここが最寄りの駅のホームであること。9月最初の、憂鬱な月曜日であること。いつも通り社会の歯車となるだけの時間が待ち受けていることを。
 思い出し、やれやれと頭を振った。
 何が「ここはどこだ?」だ。いや、いっそ記憶喪失にでもなった方がマシだったろうが。
 それでも独歩は独歩でしかなく、今日も今日とて仕事に向かわなければならない。まったく、ままならない世の中である。
 しかし一瞬とはいえ意識を飛ばしてしまうとは。月曜日だしそこまで疲労は溜まっていないはず、だが……先生に相談した方がいいのかもしれない。
 そう頭を悩ませていた独歩の視界で、何かが瞬いた。

「ん……?」

 それは星の残滓。夏の残り香。
 そんな詩的な言葉をらしくもなく思い浮かべてしまった。その少女を見た瞬間に。頭は勝手に閃き、目は自然と斜め前方で電車を待つ少女を追っていた。
 恐らくは高校生ーーなのだろう。見知った制服は少女を清廉さで飾り立てている。なのに憂いを帯びた横顔は大人びていて、そのアンバランスさに惹きつけられた。
 記憶にはない少女だ。たぶん、どこで会ったこともないだろう。
 なのに、おかしなことにーー独歩の胸には郷愁に似た感情が沸き上がっていた。懐かしく、愛おしい。年下の少女なのに、そう思ってしまった。

『ーーーーー、』

 アナウンスが響く。それに重なって、何か涼やかな音色が耳許で流れていく。それに押され、独歩は半歩踏み出した。
 もうじき電車が入ってくる。雑踏。喧騒。その中にあっては、人の身動きなど取れるはずもなく。

「ぁ……っ、」

 ささやかな声がした。そう思うか思わないかの内に、少女の体が傾ぐ。
 ぶつかったのだろうか。冷静に目の前の出来事を判断する傍らで、独歩の体はひとりでに動き出していた。そうするのが当たり前とでもいうみたいに手を伸ばし、そして。

「……っと。だ、大丈夫、ですか……?」

 片手で少女を抱き留め、たたらを踏み。それでもなんとか体勢を立て直すまではよかった。
 けれど訊ねた声が震えたことに気づき、それから自身が見知らぬ少女の体に触れていることを思い出し、ーー青ざめた。
 悪いことをしたつもりはない。だがこのご時世、何が女性の逆鱗に触れるか。頭に浮かんだのは痴漢の二文字。そこからはあっという間で、白昼堂々の犯行という見出しも欲求不満の中年と報道されるのも容易に想像がついた。

「……っ、す、すみません……!ごめんなさい!わざとじゃ……いや、えっと、」

 だから慌てて手を離した。視線は狼狽え、少女の目を見ることすら叶わない。
 あぁ、やっぱり自分はこうなるのが運命なんだ。たまの親切なんかするもんじゃなかった。人助けなんて俺には相応しくない。身の程を弁えろ。
 ……そんなことをぐるぐる考えていた独歩は気づかなかった。少女が口を開くまで。

「あの、ありがとう、ございました……私、あなたがいなかったら、きっと……」

 その頬を、涙が流れていることに。

「なっ、なんで、泣いて、……あぁ、いや、その、大丈夫ですか?」

「ええ、はい、私は大丈夫。大丈夫です、けど……」

 ごめんなさい、と少女は言った。頬を拭うたおやかな指先。しかし涙は止まらず、次から次へと零れ落ちていく。
 その時電車がホームに入ってきた。雑踏は流れ、喧騒は遠退き。乗るはずだったそれが発車してしまっても、独歩はそこを動くことができなかった。

「あの、電車……、乗らなくてよかったんですか?」

「いや、平気。えっと……そう、今日はちょっと早く出てきたから、」

 不安に瞳を揺らす少女に、独歩は咄嗟に言い繕った。とはいえ何もすべてが嘘というわけではない。今の電車を逃してもまだ始業には十分時間がある。
 それに、放っておけなかった。目の前で静かに涙を流す少女のことが。名も知らない少女のことが気にかかって仕方がなかった。

「それよりあなたこそ大丈夫なんですか……?」

「そのつもりなんですけど……なんだか止まらなくて」

 変ですよね、と少女は恥ずかしそうに目を伏せた。
 長い睫毛を縁取る雫。キラキラと光を反射するそれすら独歩の目には美しく映った。代えがたいものだと、思ってしまった。

「あの、これ……!」

 気づいた時にはもう手は動いていて。懐にあった飾り気のないハンカチを差し出していた。
 驚いたように目を瞬かせる少女。彼女はハンカチと独歩の顔を交互に見やり、それからそっと手を伸ばした。……その時掠めた指先の温もりにすら、独歩は泣きたくなった。

「ありがとう。……こんなに優しい人、初めて」

 よければお名前をお伺いしてもーー?
 躊躇いがちな問いに独歩が答える。それだけで、少女は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「観音坂独歩さん、……不思議、なんだか懐かしい響きだわ」

 噛み締めるように独歩の名を呟いて。それから少女ははにかんだ。私の名前はーー。その先は、聞かなくてもわかるような気がした。聞いた後は、やっぱりと思った。それ以外に、彼女に相応しい名はないと。

「……名前、」

 呼ぶだけで少女は笑みを深める。涙の跡を残しながら、それでも美しく。微笑み、独歩に応えた。よろしくと差し出した手に。応え、握り返してくれた。
 ーーいつかと、同じように。