春の憧れT


 ーー助けてもらった御礼がしたい。
 そう丁寧に頭を下げた少女に押され、連絡先を交換してから幾日か。
 たまの休日。少女からのメッセージに返信をしようとして……独歩は青ざめた。

「これはもしや未成年淫行というやつでは……?」

 リビングに溶ける呟き。起き抜けの格好のまま、独歩は呆然と宙を仰ぐ。
 未成年淫行。独歩は少女が学生だと知っているし、これでは言い訳のしようがない。通報されたら一発アウトだ。
 というか通報されないわけがない。見目麗しい少女と陰気臭い中年男。そんな組み合わせの二人が街を歩いているなんて、“その手”の関係としか見られないだろう。しかも元来独歩は職質を受けやすい質であったから、最悪の想像はあまりに容易かった。
 ーーそれもこれも、俺がこんな成りをしているのが悪いんだ。

「全部俺のせいだ……俺のせいで彼女にも迷惑がかかるんだ……何もかも俺の、」

「ナニナニ何の話??」

 独り言に食いついたのは、独歩とは対照的に華やかな容貌を持った同居人だった。幼馴染みでもあり、独歩の親友を自称する彼、一二三は疚しいことなんてひとつもありませんといった顔で明るく独歩を覗き込む。
 ーーあぁ、俺の顔がこいつだったら、なんの気兼ねもなく女子高生と会うこともできたろうに。
 そう嘆くほど、幼馴染みの見慣れた顔は太陽のように晴れやかだった。

「いやだからといってお前にはなりたくないが」

「答えになってねぇし!てかいきなりのディスりやべー!!」

「やべーのはお前のテンションだよ……」

 頭のネジが一本外れてるんじゃないかというくらいに、一二三の一挙手一投足は喧しい。特に連勤明けの独歩の耳には。
 キーンと響く声に、思わず独歩は眉をひそめた。もう慣れたものだが、相変わらずのハイテンションだ。日に日に老いを実感する独歩とは反対に、一二三はいつまでも子供のようだった。

「んでんで?独歩ちんはいったいどーしたんですか!?」

「なんだよそのノリは……」

「あーもう!そうやって誤魔化そうとしたってムダだかんな!!」

 けれど独歩も一二三ももう子供ではない。何もかもを詳らかにできた時代はとうに終わっているのだ。
 だからつまり、独歩は一二三の追求を交わそうとした。はぐらかそうとして、そして結局長年の友に見破られーー溜め息を吐く。
 話したくない。というか、そんな羞恥しかない話を誰が好き好んで口にするだろうか。
 そう、言外に訴えたのだけれど。

「じー……」

「うっ……」

 向かいに陣取った一二三に、無言で見つめられる。煩い口がこんな時だけ封じられ、独歩を追い詰める。
 そして。
 数秒。あるいは数分。

「わかった、話すよ……」

 根負けしたのはやはり独歩の方だった。
 先日駅のホームに落ちかけた少女を助けたこと、その時の礼がしたいと言われていること。ーーそれに応えるべきか悩んでいること。
 表層だけを明らかにする。それが独歩の精一杯で、既に視線はさ迷っていた。
 気まずい。気恥ずかしい。
 わけもわからないほどに、何故だか。彼女のーー名前のことになると、自分が自分でいられなくなるような気がした。

「ふんふん……」

 そして一二三はといえば。独歩の様子には少しも触れず、何を納得したのか軽く頷いていた。それは鼻歌といってもいいような響きで、さすがの独歩も訝しむ。

「一二三?」

「ん!?ナニナニ!!?」

「いやそれは俺のセリフ……」

 まるで会話が成り立たない。
 独歩は溜め息を吐くが、一二三が気にする素振りはなく。むしろ心底嬉しいといった表情で含み笑う。

「やー独歩にもようやく春が来たってことかぁ!」

 春が来た。それが比喩であることなど独歩にだってわかる。一二三が言いたいことも。
 だからこそ独歩は頭を抱えた。「やっぱり端から見るとそうなるのか、」まさにそれが悩みの種だというのに。なんの悪気もない一二三に傷口を抉られ、逆に独歩は己を責めた。そう勘繰られる自分にこそ責任があるのだと。

「なんで独歩がそんな落ち込んでんだよ!」

「いやだって……相手は未成年だぞ?そう見られること自体が罪じゃないか……あぁそれも俺のせい……」

「んなもん関係ねーって!!」

 朗らかに笑う一二三。彼は独歩の背負った影を振り払おうとその背を思い切り叩いた。「ぐっ、」噎せる独歩のことなど気にも止めず。

「一二三ぃ……、」

 恨めしげに睨めつけてもどこ吹く風。「大事なのはハートだろ!」と臭いセリフを吐き、一二三は己の心臓を指し示した。

「俺っちは独歩の親友だかんな!誰がなんと言おうと応援するから!」

 ーーいらぬお世話だ。
 そう、独歩は言おうとした。
 けれど一二三に「こんなに嬉しそうな独歩、久しぶりに見た」とまで言われ……口を噤んだ。
 嬉しそう、と一二三は言った。誰が?……独歩が。

「そうか……?」

 自覚はなかった。というか、触れてみても顔つきはいつもと変わらないように思う。いつも通りの辛気くさい顔。それが社会の荒波に揉まれる独歩という存在だった。
 けれど、一二三は。独歩の幼馴染みは、ーー独歩以上に独歩のことを理解していると自負する彼は、確かにそう言ったのだ。

「通報されないか……?」

「だいじょーぶだって!独歩は心配性だなぁ〜」

「いやしかしな……」

「だってちょっと会うだけだろ?御礼っつったってさ」

「まぁそれはそうなんだが……」

 一二三に肯定され続けると、本当にそんな気がしてくる。御礼に少し会うだけ。それだけなら、なんてことはないのでは。
 けれどそれだけで終わらないような予感もまた独歩にはあった。彼女との縁はこれっきりで終わるものではないのだと。彼女もーー名前も、それを望んでいるのでは、と。そんな予感があった。あるいは、期待が。
 そしてそれは後に現実のものとなる。
 約束を叶えた後。その先も独歩は同じ電車に乗り続けたし、彼女もまた独歩を見かけるたびに微笑みをくれるようになった。
 それからやがて言葉を交わすようになり、趣味を共有するようになるのだがーーそれはまだ先の話。今よりもずっと先の未来のことである。