ラストバトルの後
水を打ったような静寂。それから弾けるのはーー歓声。取り囲み、渦を巻き、天高く沸き立つ。そんな観客の姿を独歩は呆然と見上げていた。彼らの、彼女らの声は遠く。薄い膜の向こう側。何もかもが他人事で、独歩には飲み込むことができなかった。
ーーけれど。
「……独歩くん!」
「わっ……一二三……、」
背中に感じる衝撃。肩に回された手。それから耳元に落ちる感極まった声。
一二三は、幼馴染みは、ボロボロの体で独歩を抱き締めていた。その目尻に涙を浮かべるほど。喜びに震えていた。
その後ろでは神宮寺寂雷が立っていた。一二三や独歩と同じくらい、いやそれ以上に深い怪我を負って。それでもなお神のごとき柔和な笑みを浮かべ、独歩たちを見守っていた。それは普段通りに見えたのだけれどーー彼の目も、光の中で仄かに潤んでいるのが独歩にはわかってしまった。
「そうか。俺たち、勝ったのか……」
「そうだよ独歩くん!僕たちの勝利だ!!」
だからようやく独歩の中にも実感が沸いてきた。ゆっくりと、徐々に。心に生まれ、広がっていった。
ーー独歩たち麻天狼は、ファイナルバトルにてMAD TRIGGER CREWとの戦いに勝利したのだ。
それを認め、独歩は深く深く息を吐いた。
「独歩も先生もお疲れさま!」
「あぁ、一二三君もお疲れ」
控え室に戻り、人心地つく。が、未だ夢は覚めず。独歩はふわふわとした足取りのままソファに腰を降ろした。それから習慣のままに携帯を取り出す。
降り積もるメッセージ。同僚やら学生時代の知人やら。独歩すら忘れかけていた人たちからまで連絡が来ている。そのすべてが今夜の戦いに関するもので、独歩はおかしくなる。
こうでもしなきゃ見向きもしなかった癖に、なんて。卑屈な思いが首をもたげるのと同時。生まれるのは紛れもないーー晴れ晴れとした気持ち。痛快だと思う。どうだ見たか、俺を嗤った人間ども!そんな具合で溜飲を下げる。
と。
「あ、……」
画面をスクロールする指が止まる。目に留まったのはひとつのメッセージ。独歩にとっては特別なたったひとりの名前。ーー名前。
彼女を思うたび浮かぶ光景がある。緑玉の階段や雪花石膏の前庭、大理石の円柱といったものを。神々の手によって造られたものを。思い、独歩の頬は自然と綻んだ。それは先刻とは異なる、穏やかな喜びであった。
メッセージは簡素なものだった。ーー『おめでとうございます』たったそれだけ。それだけではあったのだけれど、だからこそ彼女の声で聞きたかった。言葉以上に雄弁なその瞳を。直接見つめて、祝福されたかった。
そう思ったから、独歩の手は自然と動いていた。
「すみません、ちょっと出てきます」
「あぁ、電話かい」
「いってら〜」
二人に見送られ、独歩は外に出る。
外気は冷たく、芯まで凍えるほど。今夜はひどく冷えそうだ。白い息を吐きながら、独歩は携帯に耳を傾ける。
発信音。聞き慣れたそれが今はもどかしい。ほんの数秒。その隔たりさえ。焦れ、途切れた時には、どくりと心臓が脈打った。
『……はい』
「……っ、名前、」
その調べのためならば何を捨てても構わないと思った。ロッシーニやモーツァルトやウェーバーであっても。独歩にとってはそれほどに魅惑的な調べであった。
だから言葉に詰まる。言いたいこと、伝えたいこと。それ以上に、聞きたい音色がある。
そう、継ぎ穂を失う独歩に。
『あの、おめでとうございます、観音坂さん……。ごめんなさい、こんな月並みな台詞しか思いつかなくて』
名前の声は落ち着いていた。冷静沈着。穏やかで心地のいい春の音色。それが常であった、けれど。
「どうかしたのか?」
『え?』
「あぁいや、勘違いだったら悪いんだけど……その、声の調子がいつもとは違う気がして」
けれど今、耳を擽るのはーー霧雨。漂う雨の香り。微かに掠れ、潤む声。感情を抑えたもの。
風邪でも引いたのだろうか、と。心配する独歩の向こう。電話越しに息を呑む音がして、それから。
ーー嗚咽が聞こえた。
「名前……!?」
『ご、ごめんなさい、私、そんなつもりじゃなかったのに、』
戸惑う。心配になる。慌て、焦り、狼狽える独歩に、けれど名前は泣き止まない。啜り泣きは止まらず、次から次へと溢れ出す。
『ごめんなさい、泣くのも喜ぶのも観音坂さんたちのものなのに、それなのに私が、なんて。でも、ーー嬉しいの』
嬉しくて、誇らしくて堪らないのだと名前は言う。独歩の苦悩も努力も知っているから、と。震える声に、胸が締めつけられる。
「名前、」
『……はい、』
「……会いたい、今すぐ」
唇から零れ出すのは愛おしさ。抑えようもないほどの愛情。電話越しに、ではなく。会って、その瞳に見つめられて。そうしてからその言葉を聞きたかった。先程は声だけでいいと思っていたのに。心は欲深くもそれ以上を望む。会って、その温もりを感じたい。ーー今すぐに。
『こんな夜更けに?』
「あぁ。いや、名前はそこで待っててくれればいい。俺が家まで行くから」
『でも観音坂さんは疲れているでしょう?それにうちに上げることは多分きっとできないと思うけど、』
「いいよ、そこから連れ出すのは俺の仕事だ」
戸惑いがちな声にすら焦れったく思う。が、名前からすれば当然の懸念であった。名前の両親は独歩のことなど知らないし、であるならば夜遅くの訪いなど許しはしないだろう。
彼女の言葉が独歩を気遣ってのことだとは重々承知。しかし今の独歩には無用な心配であった。今の高ぶった独歩にとっては。
『……なんだかジュリエットにでもなったみたい』
「似合ってるよ」
『……そうかしら』
名前は擽ったそうに笑った。笑って、それから。『わかった』と続ける。心底嬉しそうに。
『待ってるわ、私の王子さま。だから私をお姫さまにしてね』
「ーーあぁ、」
王子さまなんて柄じゃない。子供の時からそういうのは一二三の役割で、独歩は精々村人A。そうした立ち位置が丁度よかったし、甘んじて受け入れてもいた。
ーーけれど、今くらいはいいだろう?
「待ってろ、名前を世界一幸せなお姫さまにしてやるから」
きっと朝日が登れば夢は覚める。明日もいつも通り。満員電車に乗って、社会の歯車のひとつになる。独歩は王子さまになんかなれないし、そう言った自分を恥ずかしく思うだろう。
けれど後悔はなかった。明日、目覚めた後もきっと。はにかみ笑う名前を抱き締めることができたならーー何もかも受け入れられると思った。
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『緑玉の階段〜』はアルフレッド・ド・ヴィニー作(入沢訳)『狩人の家』より。
『ロッシーニやモーツァルト〜』はジェラール・ド・ネルヴァル作(渋沢訳)『ファンテジー』より。