プロローグT


 ーー教会とは、開かれた場所である。
 紛争の絶えなかった時代、安全面からその扉が閉ざされていたこともあったが、今は違う。武力による支配は過去のものとなった。であるならば、教会の形も時代の流れに沿って変わるものだ。
 とはいえ、現代において日曜日でもないのに礼拝に訪れる者は少ない。

「……ぁっ、」

 だから、私は咄嗟に声を洩らしてしまった。ほんの細やかではあったけれど、それは確かに静謐な空気を揺らしていた。
 しまった、と思った時にはもう遅い。

「……おや?」

 聖堂前方。キリストの磔刑像の下、ステンドグラス越しに七色の光を浴びて、その人は跪いていた。その些か時代がかった姿勢からも彼が敬虔な信徒であることは伺い知れる。

「あ、あの、ごめんなさい……!私ったら人がいるとは思わなくて」

 それはなおのこと私の罪悪感を掻き立てた。
 礼拝は誰にも犯す権利のない神聖なものだ。それを邪魔するなんて……。
 私は慌てて聖堂の重い扉を閉めようとした。もう二度とこの見知らぬ青年の清らかな時を汚さぬようにと。そう、立ち去ろうとしたのだったけれど。

「いえ、邪魔などではありませんよ。小生もちょうど祈りが終わりましたので」

 書生姿のすらりとした青年は流れるような所作で立ち上がり、私の元へと歩み寄った。儚げな微笑を端整な面立ちに宿して。
 その笑みは聖母マリアの彫像もかくや、といった具合で。

「しかしここはよいところですね、清浄な空気が流れていて」

 だから青年がそう言ったことに私は嬉しくなった。

「ありがとうございます。きっとこれも神のご加護あってのことでしょう」

 信仰対象にほど近い青年。そんな彼から与えられた言葉。それは愛する家を褒めるものであったのだからーー嬉しくないはずがない。
 そう思いながら浮かんだのは自然な笑顔だったことだろう。故にか、青年もまた笑みを深くした。

「またこちらに立ち寄っても……?」

「ええ、もちろん」

「……僕はこの教区の人間ではないのだけれど、」

 控えめな物言い。柔らかな物腰。それは一層の感じの良さを与えてくる。
 ーーきっとこの青年は善き人だ。善き行いをなす人だ。
 直感的にそう思った。思ったから、私も「構いませんよ」と彼の語調に合わせた。

「確かにかつてはもっと厳格な決まりがありましたけれど、信仰とは時代に合わせて移り変わるものです。主は寛容ですから」

 世の中には様々な宗派、教派がある。けれど私の属する教会では近代化に対し比較的柔軟な対応がなされてきた。異教の慣習を受け入れ、進化論を認める。そうしてきた経緯があるからこそ、女性が政権を握るようになった後も世に相応しい形へと改革が行われた。ーーそれが女性司祭誕生の理由である。
 そう話す様子がよほど面白かったのか。

「……そうですか」

 青年は目を細めて笑ったのだった。



 「またこちらへ立ち寄っても?」そう訊ねた通り、青年は日曜日の礼拝以外にも聖堂へ立ち寄るようになった。
 そのうちに私は彼の名前が夢野幻太郎ということ、同い年であること、そして作家を生業としていることを知った。

「すごいわ、身近に先生がいるだなんて」

 出会いと同じ聖堂の中。けれどその日とは違い、長椅子に二人肩を並べて座っていた時だった。
 遠慮がちな打ち明け話。その頃にはもうすっかり親しみを抱いていた私は、驚きと共に心のどこかで納得もしていた。彼の選ぶ言葉は瑞々しく、どことなく神のそれを彷彿とさせたから。
 だから彼が多くを語らずともそれが真実であることを疑いはしなかった。

「いいえそんな大層なものではありませんよ。これは趣味のようなものですから」

 憧憬を籠めた視線は、慎ましい言葉で交わされてしまう。それでも私は「そんなことないわ」と続けた。

「尊敬します。お恥ずかしい話ですけれど、私、物語というものに縁がなかったものですから」

「縁が?」

「……ええ」

 訝しげな眼差し。ひそめられた眉に、私は思わず目を伏せた。それは間違いなく羞恥によるものだった。聡明な彼の目に相応しくない、そんな羞恥からだった。
 けれど問いには答えなくてはならない。
 だから私は躊躇いがちに言葉を紡いだ。

「物語というものにはその人の信仰が写し出されるものでしょう?例えば『赤い靴』だとか、『アルプスの少女ハイジ』だとか……。そうしたものに影響を受けてはいけないと幼い頃は聞かされていて……だから、その……」

 ーー教養のない女と落胆されただろうか。
 そう、恐る恐る様子を窺ったのだけれど。

「……では僭越ながら。小生がいくつか語って聞かせましょうか」

「……っ、ええ、ぜひ!」

 穏やかな微笑。穏やかな声音。それはさながら福音のようで。
 思わず身を乗り出した私は、そうしてから「あっ」と声を上げた。
 ーーこんなことで取り乱してしまうなんて。
 終生誓願式を終えて三年。修道女になってからはもう片手では足りないほどの時を過ごしてきたというのに。
 これでは兄弟姉妹に合わす顔がない。自己嫌悪に陥る顔は赤とも青ともつかぬ色をしていただろう。
 けれど彼はそれを嗤うことをしなかった。むしろ微笑ましいとでもいいたげな目で私を見ていた。
 ーーそれが、気恥ずかしくも心地いい。

「……ご迷惑でなければ、お話を聞かせてくださいますか?」

「迷惑だなんて。僕としてもここで過ごす時間は楽しいものですから」

「それならばよいのですけれど……」

 言うと、「嘘ではありませんよ」と彼は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。そんな仕草すらも様になっていて、私も頬を緩める。
 これまで私に必要な書物は聖書や聖伝、そういった類いのものだけだった。幼い頃から両親にそう教えられてきたし、それを悲しく思ったのは子供だった時分の一時だけだった。一時だけだと、思い込もうとしてきた。
 けれど、今。
 不思議と思い出していた。幼少期、敬虔な信徒だった両親の影響で友人がいなかったこと。しかし奉仕活動の最中出会った少年と少しばかりの交流をしたこと。その彼が物語の知らない私に愉快なお話を聞かせてくれたこと。
 そんな記憶を思い起こしていたのだ。