プロローグU


 出会いの日から季節が移り変わろうとする頃。

「ところで次の安息日なのですが……ご予定はありますか?」

 不意に。彼は私に訊ねてきた。
 そうしたことを聞かれたのは初めてのことだ。だから私は戸惑いから目を瞬かせた。

「いいえ、とりたてて用という用はありません、けど……」

 安息日。主が復活なされた聖日。
 すなわち日曜日は毎週ミサが行われている。けれどそれは最早特別言葉にするものではなくて、そして恐らく彼も承知であったことだろう。彼の言い回しからして、それ以外の予定を聞かれているのだと私にも察することができた。
 だからそう答えたのだけれど。

「そうですか。……よかった」

 よかった。その語調は独り言のようで。つい溢れてしまったという具合で、言った後に彼は気恥ずかしそうに目許を朱に染めた。
 「あぁ、どうかお気になさらず」そう言われても、意識の外に追いやることができない。
 そうですか、とその言葉を受け入れた風を装いながら、しかし私の視線は定まらなかった。見てはいけないものを見てしまったような心地。なのに心臓の方はちょっとだけ喧しくて。……なのに気分は高揚していて。

「ええっと、それで……」

 そうしたものから意識を逸らそうと、私は口を開いた。
 こう訊ねてくる、ということは何か用件があるのだろう。……自惚れでなければ。
 とはいえ真っ直ぐに言葉にするのは難しい。望んでいるのは私の方なのではという気になってくる。

「……あなたの尊い時間を少しばかり分けていただきたいのですが、」

 だから彼が慎ましやかにそう言った時にはホッとした。想うのは私ばかりではないのだ、と。

「ええ、喜んで」

 そう答えると、彼もまた表情を緩めたのだった。



 ーーそして約束の日。

「それで今日はどこに連れていってくださるの?」

「ふふっ、それは着いてのお楽しみです」

「もう、そればっかり」

 教会まで迎えに来てくれた彼は、目的地を告げることなく私を連れ出した。
 とはいえ不安はない。しつこく質問するのもドキドキの裏返しで。

「そう言われると期待してしまうわ」

「ええ、どうぞ。きっとあなたも気に入ると思いますよ」

 清々しい彼の眼差し。それは雑踏の中でも緑鮮やかに映った。いや、だからこそ、だろうか。世俗から切り離された静謐な瞳に見つめられるだけで、私の心にも清らかな風が吹く。
 これまで祭服を重たいと感じたことはなかったのに、脱ぎ捨てた今は翻るスカートすらいつもより身軽に思えた。

「それにしても随分と遠いところにあるんですね」

 歩き始めてどれくらいたったろうか。
 彼の足取りは正確で、迷いは微塵もない。乱立する建物の間を縫い、細い裏通りを抜け、奥へ奥へと進んでいく。
 背の高い建造物が密集する空間。小さく切り取られた空は遠く、太陽の傾きすらよくはわからない。頼りになるのは己という時計ばかりで、それすらもこの隔絶された世界では心許なかった。

「疲れましたか?」

 微かに不安の過る眼。私は慌てて首を振った。「いいえ、そうではありません」そうではなく、……ただ、何かが引っ掛かる。
 彼を疑っているわけではない。疑わしいのは彼ではない。彼ではなく、私は……。

「なんなら手でも繋ぎましょうか?」

 そっと差し出された掌。しなやかな指先は、きっと今でなければ躊躇いを覚えたろう。

「……お願いします」

 遠慮がちに触れた膚は、晩秋とはいえ驚くほど冷たかった。
 それでも胸を撫で下ろす。これは夢ではないのだ。私は確かに現実を歩いているのだ。そう確信できたから……気がかりには目を逸らすことにした。
 気のせいだろう。ここが自分の知っている街ではないのではないか、なんて。馬鹿げた妄想だ。華やかな街に相応しくない、どこか古ぼけた匂いがするのだって……きっと。
 とはいえ、「ここです」と彼が立ち止まった時には思わず身構えてしまった。

「ここが……?」

「そう、目的地です」

 目の前にあったのは昔懐かしい日本家屋だった。櫓か燈台といった形のそれが、コンクリートでできたビルとビルの間に挟まっていた。
 ーー明らかに異質だ。ここだけが異空間に繋がっているみたいで、私は言葉に詰まった。
 看板も何もない。だが彼は扉を引き、中へ入っていく。手を引かれた私も、同じように。
 中はしんとしていた。それは物音がないというだけではない。とにかく暗いのだ。灯りといったら等間隔で並んでいる燭火くらいなもので、突然の暗闇に目眩がした。

「ここはいったい……」

 なんなのですか、と。答えを期待してはいなかったけれど、そう訊ねた。すぐ前にある背中に向けて。
 すると彼は振り返り、ゆるりと笑んだ。

「ここは図書館ですよ」

「図書館……」

 言われて、まじまじと辺りを見回してみる。
 灯りの置かれた側、よくよく目を凝らすと……確かに、彼の言う通りだ。文字は掠れているが、本の背表紙が見える。
 それらの背を追いかけて……私は限りがないのに気づいた。

「もしかして、ここら一帯全部本なのですか……?」

 建物は吹き抜けになっており、上に長くできていた。頭上高く、ずっと先、小さく明かり取りが見えるが、その日差しは私のところまで届かない。それほどまでに天井は遠くにあった。
 だからその辺りに何があるのかは私からは見えない。見えないけれど、見える限りのところに本はあるようだった。どこまでも、どこまでも。
 けれどそんなところまで手が届くはずもない。第一、それでは図書館として欠陥ばかりだ。俄には信じがたい。
 だが、彼は首肯した。今私たちを取り巻くすべてが書棚であると。うず高く積まれているのはすべて本であると。
 頷いて、謎めいた微笑を浮かべた。

「さぁ、どうぞ。ここにあるすべてがあなたのために書かれたものです」

 もう、わけがわからない。
 夢を見ているのか。それならばいつからが夢なのか。地に足がついていないような感覚。思考は定まらず、頭は薬でも飲んだみたいにぼうとしていた。

「では……」

 導かれるがままに手を伸ばす。