武官、戦場を駆ける


 風が頬を切る。蹄の音が脳を揺らす。構えた矛を、前に突き出す。
 洩れる呻き声。溢れる赤。なのに彼はーー彼らは止まらない。虚ろな目のまま。ただ前へ前へと足を動かす。
 それはあまりに気味の悪い光景だった。人知を超えた力ーー妲己の誘惑。

「……っ」

 思わず舌を打つ。これでは殷の兵を殺し尽くさねば戦いは終わらない。命ある限り、彼らは歩みを止めぬのだから。

「武王!何か太極図がうまく機能していないようだ!!」

 楊ゼンの声。その言葉に、名前は思わず空を見た。ひとり、妲己と向かい合う周の軍師を。

「太公望どの……」

 顔色が悪い、と思った。思ってから、それも当然だと唇を噛んだ。妲己。金鰲島の仙女。たったひとりで人間界を混沌へと突き落とした恐るべき存在。そんな妖怪仙人と彼は戦っているのだ。
 なのに名前にはどうすることもできない。武王の言葉も殷の兵には届かない。太公望ひとりに妲己を任せ、その隙に殷を倒す。それしか勝機はないのだ。

「兵をフォーメーションZに展開し……」

「フォーメーションZ!!!」

 楊ゼンの鋭い指示が飛ぶ。それに従い、名前たち周軍は動きを始めた。ただ今自分にできることだけを考えて。

「いけますね武王!」

 そうして周軍は太公望の指示通りに殷軍を取り囲んだ。背後に流れる黄河を利用し、殷軍の動きを封じたのだ。地の利を活かした作戦。これで戦力差は縮まった。
 ーーだから、油断してしまったのかもしれない。

「うっし!これで後は外からじわじわ削ってけばOKだな!」

 太公望の教本を開く武王。その後ろ、矛を構えたままの名前の鼻先を何かが掠めた。何かーー甘い香りが。
 それは芳しくも毒々しさを孕むもので。

「ここはなんとか太公望に頑張って……」

「武王下がって!」

 白刃が煌めく。切っ先が迫る。幾つもの矛が、武王へと向けられる。
 考える暇はなかった。名前は声を上げ、矛を振るった。一本、二本。弾き、蹴り上げーーしかし懐に入った刃を防ぐ術などなく。

「名前ッ!!!」

「名前くん!!」

 貫かれる体。腹部から始まる亀裂。痛み。それからーー溢れ出る血潮。
 それでも名前は声を殺した。ともすれば喉を押し開こうとするそれを。奥歯で噛み殺し、目の前に立つ兵を一撃で地に沈めた。

「平気です、なんてことない……」

「何言ってんだバカやろう!」

 よろめいた体を支える腕。それが思いの外力強いことに驚きーー安堵した。これならもう大丈夫。きっとこの方なら成し遂げられる。先代の見た夢を。平らかな国を。この人の手なら、きっとーー

「本当に大丈夫……。どうかご案じにならないで」

 名前は武王の胸に手を添えた。決して寄り掛からぬようにと両足に力を籠めた。
 それから、彼を見上げてーー笑った。

「わたしはあなたを庇ったわけじゃない。わたしならばあの程度の攻撃いなせると思ったからーー」

「だけど、」

「それに武王が傷つくよりわたしが怪我をした方が余程いい。それに致命傷は避けました。わたしならばまだ動けますから……」

 なおも言い募ろうとする武王を押し留め、名前は冗談めかして言った。
 かつてもこんなことがあった。北へ行った時。彼を庇った時。名前を喪うかもしれないーーそれだけのことで彼が胸を痛めたことがあった。
 あれから名前にも武王にも色々なことがあった。色々なことがあってーーそれでも名前は変われなかった。結局のところ、体は勝手に動いてしまう。
 何より尊い、主のためならば。

「バカやろう……」

 武王は今にも泣き出しそうだった。名前の血に汚れながらもなお高貴な面立ちを歪めて。泣き出しそうに名前を一度強く抱き締めた後でーーその手を離した。

「……信じるぞ」

 瞬時に表情を消して。姫発ではなく武王として、彼は名前を見た。その言葉を。まだ動けると言ったのを信じると。
 そう言った彼に、名前は頷いた。

「ええ、……もちろん」

「ならいい。けど……無理はするな。俺だってもう子供じゃねぇ。お前にばっか護られてたまるかってんだ」

 周りには虚ろな目をした兵士ばかり。正気を保っているのは名前と武王と、それから楊ゼンだけだ。しかも名前は負傷し、楊ゼンには宝貝を扱う力がない。
 どうするかーー厳しい顔を見合わせた時だった。

「ーーッ!!!」

 不気味な静寂の支配する戦場。そこに迫る轟音。無数の蹄の音が響き渡りーー、

「武王よ!」

 涼やかな風が一陣、舞い込んだ。

「私は姜族の統領、呂邑姜!!姜の騎兵五万、周の助太刀いたします!!!」

 先頭で馬を駆るのは華奢な体躯の少女だった。空に映える黒髪に、幼さの残る容貌。
 けれどその右手には長刀が握られ、左手は勇ましく馬を操っていた。
 それに何よりその真っ直ぐな声。芯のある堂々とした声音に、名前はたちまち目を奪われた。
 一瞬でわかった。彼女が信頼に足る人だと。この助けは真のものであると。
 理解したから、名前は深々と頭を下げた。

「感謝致します、姜族の方々よ」

「……いえ、」

 すると少しだけ、邑姜の表情が揺らいだ。驚いたような、そんな具合に。揺らぎ、しかしすぐに引き結ばれた。

「何をしているのですか!!太公望さん!!!」

 邑姜の視線は遥か上空ーー太公望へと向けられた。

「それでも姜の戦士ですか!!!」

 その声に、太公望の顔が変わる。滲む疲労を振り払い、太極図を握り直す。

「……っ」

 巻き起こる風。土煙。その向こうで、ふと。

「あれ……?」

「オレたちは何を……?」

 困惑の声。ざわめきが、戦場に広がる。

「お!兵のやつら正気を取り戻しやがった……」

「よかった……」

 ーー本当に、よかった。
 苦楽を共にした兵たち。操られた彼らを痛めつけるのは、例え命を取らずとも心苦しいものだ。だから彼らの目が醒めて本当によかった。
 ーーこれも、太公望どののお陰だ。

「ヤローども態勢を立て直せ!!まだ戦は終わっちゃいねぇっ!!!」

 ならばそれに報いるためにも勝たねばなるまい。
 名前は改めて矛を握り締めた。