赤い靴T


 そして私はページを捲った。



 私の目の前には靴があった。エナメル革でできた真っ赤な靴が。

「とってもきれい……」

 何故だかわからない。けれど、私の目はその靴に惹きつけられていた。他のものなんて目に入らないくらい。真っ赤な靴のことしか考えられなかった。

「きっとお似合いですよ」

 肩越しにかけられた声。ショーウィンドウのガラスには、年若い青年の姿が映し出されていた。

「ありがとう。でも私、この靴は買えないわ」

 私は振り返って答えた。
 目を離せない、そう思っていたのに。声をかけられた瞬間、魔法が解けたみたいに私の体は自由を取り戻していた。
 それにホッとしつつ、見知らぬ青年を見上げる。
 日に透ける榛色の髪。心を落ち着かせる翡翠の瞳。記憶にはない彼だったけれど、それでも不思議と緊張を覚えることはなかった。
 それはきっとその口許に浮かぶ穏やかな微笑のせいだろう。だから私は警戒することもなく、言葉を続けた。

「今日は堅信礼のための靴を買いにきたの。だからダンス靴は諦めないと」

 堅信礼。それは聖霊の恵みを豊かに受け、教会と固く結ばれるための大切な秘跡のひとつだ。
 だから真っ赤な靴なんて神への冒涜に等しい。
 そう私は言ったのだけれど、「どうして?」と彼は小首を傾げた。

「どうして信仰のために何かを諦めないといけないんですか?神はそれほどに狭量だと?」

 違うでしょう、と畳み掛けられ、言葉に詰まる。
 正しいこと、正しくないこと。それは私にとって考えるまでもないことだった。だってすべて主が定めてくださっているから。その通りに行動すればよかったから。
 だから彼に言われて、それは正しくないと頭ではわかっているのに何も言葉が浮かばなかった。

「でも、でも……私、おばあさまと約束しているの。堅信礼用の黒い靴を買うって。だからふたつは買えないわ」

 私に両親はいない。本当の父と母は既に主の元で眠りに就いた。今私を育ててくださっているのは、そんな私を憐れんで拾ってくださった養母だ。恩義あるおばあさまを裏切ることなんて私にはできない。お金を無駄に使うことだって。
 そう言うと、彼は少し考えた様子で顎に手をやった。考え、そして。

「それならば小生がひとつあなたに贈りましょう」

「え……?」

 にっこりと笑って。
 彼は私の手に何かを乗せた。何かーー長方形の箱を。
 彼の言ったことがうまく飲み込めなくて、私はその顔と手元を交互に見やった。けれどその笑顔から何かを読み取ることはできなくて。

「これは……!」

 促されるがまま箱を開けた私は、そこに横たわる赤い靴に言葉を失った。
 だから私は問い質そうと顔を上げたのだけれど。

「いない……?」

 青年の姿はもうどこにもなかった。まるで夢か泡沫か。そんな具合で、私の前には風が吹き抜けるばかり。
 けれど夢でないことは私が一番よく知っている。だって手の中には彼からの贈り物が確かに残っているのだから。

「どうしよう……」

 戸惑いながらも私の手は靴を手放そうとはしなかった。

 彼は贈り物だと言った。けれどそれを素直に受け取ることなどできるわけもなく。
 いつかまた会えたら返そう。そう考え、私は赤い靴の入った箱を仕舞い込んだ。
 代わりに履くのは真っ黒な靴。サクラメントに相応しい礼儀正しい靴。

「…………」

 なのに、堅信礼の間中、私の頭を占めていたのは赤い靴のことだけだった。

「どうしちゃったのかしら……」

 日曜日の朝、聖餐式を控えても私の気持ちは変わらなかった。ただただ赤い靴が履きたい。履きたくて、踊りたくてたまらない。
 どうかしているとしか思えなかった。堅信礼があってから最初の主日。初めて陪餐が許された日。洗礼と同じくらい大切な秘跡の日だというのに、私はあの赤い靴のことばかり考えてしまう。

「ダメよ、許されないことだわ」

 それでもなんとかこの日は黒い靴に足を入れ、馬車に飛び乗ることができた。
 でも長くは持たないだろう。教会にいてさえ心は遠くにあるのだ。きっとそのうちに私は赤い靴を履いてしまう。赤い靴を履いて、神への祈りを忘れてしまう。そんな予感があった。
 だから私は舞踏会に行くことにした。
 こんなにも赤い靴が気になるのは誰かに認められたいからだ。かつておばあさまが私を拾ってくださった日のように、あの日に履いていた赤い靴が私に幸運な出会いをもたらしてくれたように。私は誰かにーー特別な誰かに見つけてもらいたいのだろう。
 そう考えたから、舞踏会に行くことにした。そうすれば赤い靴への欲求も少しは満たされるはず、と。例え出会いがなくとも、これほどまでの強い誘惑はなくなるだろうと。
 そう思ったのだけれど。

「そんな……」

 舞踏会当日。おばあさまが病に倒れた。その病状は重く、とてもひとりにしてはおけない。お医者様からも強く念を押された。決して目を離してはいけません、と。
 なのに私は赤い靴を手にしていた。衣装箪笥の奥深く、箱に仕舞ったはずの赤い靴を手にしていた。

「……っ、」

 ごくり、と唾を飲み込む。
 目眩がする。頭も痛い。視界はぐらぐらと揺れ、なのに焦点は赤い靴にぴたりと収まっていた。それ以外、目に入らなかった。
 最初は眺めるだけのつもりだった。舞踏会に出られないなら、せめて。
 なのにそれを見た途端、今度は履いてみるだけならと思ってしまった。履いてみるだけ、部屋の中でなら誰にも咎められやしないわ。そう、思ってしまった。
 けれど、それが罪だったのだ。

「……待って、やめてっ!」

 履いて、ドレスを着て、姿見を見て。それだけで満足しようと思っていたのに。
 赤い靴に入れた瞬間、その足はひとりでに踊り始めた。白いローブの裾は翻り、体は私の知らないステップを踏み続ける。それは壁にぶつかっても、扉に阻まれても止まらない。屋敷を出ようとも、町を離れ、暗い森へと進もうと。夜がこようと止まることはなかった。

「もうやめて!止まって!お願いだから!!」

 私は泣き叫んだ。怖くて痛くてたまらなかった。木の枝や茨に膚は裂かれ、流れ出た血がドレスを朱に染めていた。まるで赤い靴に合わせて誂えたみたいに。私は纏めていたはずの髪を振り乱しながら、ただただ躍り続けた。
 そうしているうちに、一軒の小さな家が見えてきた。それは森に入ってから初めて見た明かりで。

「お願いします!私の足を切り落としてください!」

 それは私にとって救いの火に等しかった。
 私は夜中だろうに必死で戸を叩いた。こうしている間にも足は先へ先へと進もうとしている。
 それを壁にしがみつくことで耐えながら、私は叫んだ。神へ乞うように。懺悔するように。足が勝手に動いて止まらないこと、靴と一緒に切り落としてほしいということを訴えた。

「いいでしょう」

 扉が開く。明かりが暗い森に差し込む。例えそれが人工的な光だろうと、私にはその人が天使様のように思えた。
 小さな家から出てきた青年は、その手に大きな斧を持っていた。
 月の光を浴びて煌めく刃。それに恐怖を覚えなかったといえば嘘になる。けれど私はそれを飲み干して、もう一度「お願いします」と頼み込んだ。
 その時彼が微かに笑ったように見えたのは私の目の錯覚だろうか。涙で滲んだ視界がぼやけただけだろうか。
 わからないままに、私は彼の手で地面に縫い止められた。

「……っ」

「大丈夫、痛いのは一瞬ですから……」

 翡翠の瞳が弧を描く。その手が大きく振りかぶられる。
 そこまで見届けて、私はぎゅっと目を瞑った。