赤い靴U


 私の足を切り落としたその人は、なんと親切なことに義足まで用意してくれた。

「悪いわ、そんな……助けていただいただけで十分ありがたいのに……」

「いいんです。小生も貴重な体験をさせてもらいましたし」

 夢野幻太郎と名乗った彼は小説家なのだと言う。「だからこの経験も有り難く利用させていただきますよ」悪戯っぽく笑う彼は、たぶん未だベッドから離れられない私に気を遣っているのだろう。
 殊更に冗談めかしている様子からそう察して、私はなおのこと申し訳なくなった。

「ごめんなさい、ベッドまでお借りして……。おまけに治療まで」

「そちらも好きでやったことですから」

 痛みに気をやった私が目を覚ましたのは翌日のこと。太陽は既に頂点を過ぎ、森は明るく色づいていた。
 切り落とされた私の足は私を置き去りにして、森の奥へと去っていったらしい。きっと今もどこかで踊っていることだろう。あの真っ赤な靴と一緒に。私の罪は悔い改める機会すら与えられず、私の手元から離れてしまった。
 それが気にかかり、自然表情を曇らせる。と、その手が不意に握られた。

「名前、あなたがこれ以上気に病むことはありませんよ。誰にだって間違いというものはあるのですから」

「夢野さん……」

「幻太郎、と。どうかそう呼んでください」

 春の日だまりのような眼差し。細められた翡翠の瞳は優しく、私の心を解きほぐしていく。
 私ははにかみながら「幻太郎さん」と呼んだ。それだけで心底嬉しいという風に彼が頬を緩めるものだからーー私まで釣られてしまう。罪のことも、罰のことも忘れて。
 ーーでも。

「そろそろ歩いても大丈夫かしら?私、おばあさまに何も言わずに出てきてしまったから……」

 冷静になってから思い出すなんて薄情にもほどがある。
 けれど今一番気にかかっているのも事実。屋敷には他に使用人も沢山いたから問題はないと思うがーーそれでも養母の身が心配だった。
 しかし幻太郎さんは首を振る。悲しそうに。あるいはすまなそうに。

「今はまだ薬で痛みを飛ばしているだけです。歩くなんてとても……それもここから町までなんて無謀ですよ」

「そう、ですか……」

 ならば馬車を、と思ったけれど、「今は安静になさい」と嗜められては我儘を言うこともできなかった。
 それから一ヶ月が過ぎ、五週間目が終わる頃。

「あ、おかえりなさい!」

 義足にも慣れ始めた私は、幻太郎さんのいない間家事を手伝うようになっていた。といっても仕事のせいもあり、彼は一日の殆どを自宅で過ごしている。だから私にできることなんてほんの些細なことだけだ。
 それでも自立が進んでいるという感覚は気分を上向きにさせる。だからこの日も買い物に出た幻太郎さんを明るく出迎えたのだけれど。

「どうかなさったの……?」

 ただいま、という声がいつもより頼りない。そんな気がして、私はおずおずと問い掛けた。何か、悲しいことでもあったのだろうか。
 私が案じていたのは彼の身だけだった。なのに幻太郎さんは私が訊ねた途端、くしゃりと顔を歪めた。
 そして、そのたおやかな指先で私を抱き寄せた。

「幻太郎さん……?」

「……すみません、」

 掠れた声は懺悔の響きをしていた。
 ーーすみません、僕は、あなたに取り返しのつかないことをしてしまった。
 そう言った彼の体は震えていて。

「あなたのお婆様が亡くなったようです」

 その報せを聞かされても、私の頭にあるのは彼のことだけだった。

「それは……あなたのせいじゃないわ」

「ええ。でも……あなたから別れの時を奪ってしまった」

 泣き出しそうな声音。私は彼の体に手を回し、その背をゆっくりと撫でた。宥めるように。痛みを取り除くように。ーーそれもあなたのせいじゃない。肩口に顔を埋めた彼の耳許でそう囁いた。

「きっとあなたに引き留められなくても……私がおばあさまと会うことは二度となかったわ。私が罪を犯した時点で、私はもう……」

 とうに見放されていたのだ。
 だってそうじゃなきゃおかしい。あの日、明らかに普通でなかった私が飛び出していったというのに、家の者は今日までひとりも探しには来なかった。そう、ただのひとりも。私を失踪人として扱う人も、捜索に来る人もいなかった。森に入るまで、沢山の人の目に留まっていたはずなのに。
 私は、誰からも求められなかったのだ。
 けれどそれを認めるのは恐ろしく勇気のいることであったから……これまでずっと目を逸らしてきた。私を心配しているおばあさまのために早く元気にならないと。そう言い聞かせて……自分を騙してきた。
 でも、それも終わりだ。

「ありがとう。それからごめんなさい、ずるずると居座ってしまって」

 私は彼の顔を持ち上げた。両頬に手を添えて、その顔をまじまじと見上げた。
 清らかな目だ。爽やかな風の似合う容貌だ。……神に背いた私には、恐れ多いほど。
 だから私は凪いだ心で微笑むことができた。この別れは必然だ。彼の側に私は相応しくない。そう自然と思えたから、悲しくとも寂しくとも、私は微笑むことができた。

「……これからどうするつもりです?」

「とりあえず教会に行こうと思います。懺悔をして、それから赦しを乞うわ」

 心を入れ替えよう。俗にまみれたものを捨て、奉仕活動に精を出そう。
 それが正しい道だと私は信じていた。信じて、疑いはしなかった。

「……なぜですか?」

 けれどそれを聞いた彼の瞳には怒りの焔が揺れていた。なぜ、どうして、と。硫黄の雨より苛烈な焔が私から言葉を奪っていった。

「なぜあなたが神に赦しを乞わなければならないんです?あなたはただ靴を履いただけ。それだってあなたの意思じゃない。神のような力を宿した靴のせいだ。それなのに奉仕を求めるなんて、」

 そんなの、あまりにも神に都合がよすぎる。
 彼はそう言って、私の両の手を握った。

「靴を履いたことが罪ならば、あなたはその身から血を流すことで贖ったはずだ。それ以上に罰が必要というなら、」

 そこで、彼は一度言葉を止めた。
 彼の目は真っ直ぐに私へと降り注いでいた。雪を溶かす温かな日差し。この一ヶ月、絶えず与えられていた温もりにーー私は、自身の本当の願いを知った。
 知ってしまったから、

「これ以上の罰は、僕がもらうよ。ふたりで分け合えば苦しくはないでしょう?」

 その言葉に、涙が溢れた。

「私、ここにいてもいいんですか?あなたの、幻太郎さんの隣にいても、」

「ええ、ええ……、それは僕も望むものです」

 頬を伝う雫が掬い取られる。それにも躊躇いを覚えたのに、彼は気にするなと首を振る。あなたは穢れてなどいませんよ。そう言って、ーー私のほしい言葉ばかりを与えて、笑った。

「名前、どうかその心をーー敬愛も信仰もすべて、僕に」

「ええ、この心の一片も、あなたに」

 この胸には最早神への愛など存在しない。例えそれで神からの愛が永久に失われようと。構いやしなかった。
 だって私にはもう新しい神様がいる。私の大切な、たったひとりの特別な人がいる。神様であり、恋うる人ーー幻太郎さんさえいれば、世界の神様なんて必要なかった。