サンドリヨンT


 そして私はページを捲った。



 私が『灰かぶり』と呼ばれるようになったのはいつからだろう。
 私の母は私がまだ幼い頃に亡くなった。その悲しみに堪えられなかったのか、父はすぐに新しい母を迎えた。その人には二人の娘がいて、私は彼女らを姉と呼んだ。
 けれど血の繋がりのない私は、彼女らにとって異分子であったのだろう。彼女らが私を家族と呼んだことはなかったし、父もまた私を省みることをしなかった。
 でも悲しくはなかった。寂しくも、苦しくも。
 だって私には、秘密のお友だちがいるのだから。

「こんばんは、名前」

 夜。みんなが寝静まった頃、私の部屋の窓は叩かれる。決まって三回。等間隔で鳴り響くそれが、二人の間で交わされた約束の合図だった。

「こんばんは、幻太郎さん」

 私は弾む気持ちを隠しきれずーーけれど家族に見つからぬよう、できるだけ物音を殺して窓を開け放った。
 途端、室内に吹き込む冷ややかな風。そうしたのは私なのに、反射的に目を閉じた。頬を打つ外気。煽られ乱れる髪。
 それを柔らかく撫でつける、温かな指先。

「そんなに急がずとも僕はどこへも行きませんよ」

 月の光を浴びて、その人は奥ゆかしい笑みを浮かべた。
 私の大切な人。たったひとりのお友だち。
 幻太郎さんは微笑みながら私の頬に触れた。窓辺から身を乗り出す私を宥めるように。
 それが気恥ずかしくてーー心地よくて。
 私はくすくすと笑った。

「だって幻太郎さん、放っておいたらどこかに行ってしまいそうなんですもの」

「おや、小生をそんな薄情者と?」

「いいえ、でも……時々ちょっとだけ意地悪だから」

 私が口を尖らせる真似をすると、彼も「心外ですねぇ」と大仰な動きで両手を挙げた。
 そんなやり取りすら楽しくて、私の頬はすぐに緩んでしまうのだが。

「ねぇ、……そちらへ行っても?」

「ええ、どうぞ」

 そっと訊ねる。彼が受け入れてくれると知っていて。毎夜確かめるように私は同じ言葉を繰り返す。そして彼も同じ言葉を返し、私に手を差し出した。

「……ありがとう」

 その所作が王子さまのようだと思うようになったのはいつからか。その翡翠色の瞳に見つめられるだけで鼓動が速まるようになったのは。そのしなやかな指先に抱き締められたいと思うようになったのは。ーーいったい、いつからだったろう。
 でも私は何も言えなかった。ただつまらない返事だけをして、差し伸べられた手に自身のそれを重ねた。

「……いえ、」

 彼もまた何事か言いたげな目をした。けれど翡翠は冷たいまま、沈黙を守った。
 私は木枠を乗り越え、庭に降り立った。昼間は踏み荒らすことの禁じられた、緑豊かな中庭へと。降り立ち、彼の隣に膝を折った。
 神の手の届かない宵闇。だというのに、私の胸は安らいだ。広がる漆黒に。何もかもを覆い隠す夜に。私が名ばかりの貴族の娘であることも。日々の仕事に追われ、灰に汚れた体も。夜は、すべてを覆い隠してくれていた。

「……ねぇ、知ってる?もうすぐこの国の王子さまがお城で舞踏会を開くんですって」

 独りごちる。そんな響きで私は口を開いた。ぼんやりと、手の届かない月明かりを見上げて。

「ええ。街でも噂になっていますから」

 そう言った彼の声音は凪いでいた。
 けれど次に「名前も行くんですか」と言った時には、それはどこか寒々しく響いた。そこには違和感を覚えるくらいに感情というものが察せられなかった。そう、一片たりとも。
 でも私は笑ってしまった。彼の反応に、ではない。その質問の意味のなさに。

「いいえ、私は行けないわ。……行ってはいけないと、固く言いつけられているもの」

 しようがないわよね、と笑い飛ばそうとした。ちょっとでも期待した自分を冗談にして、土の下に埋めてしまいたかった。死者を埋葬するみたいに。もう二度と、起き上がれないように。
 ーーなのに、

「……泣いているんですか?」

 触れられ、気づかされる。
 その頬を伝うものに。しとどに濡れた眼に。気づかされ、私は慌てて目許を拭った。

「違うの、違うのよ。悲しくはないの。私、今だって十分幸せだもの。あなたみたいな素敵なお友だちがいて……こうして、生きていられるだけで」

 言いながら、なんて言い訳がましいんだろうと自分でも思う。これでは肯定しているのと一緒だ。悲しいと、もっと幸せになりたいと。
 これが神の試練だというのなら、そう思うことすら好ましくない。わかっている。わかっているのに、私は願わずにはいられなかった。

「名前……」

 引き寄せられ、肩口に顔を押しつけられる。背に回った手。慰撫する指。遠い昔に忘れ去られた温もりに、私の涙腺は堪えられない。堪えきれず、私は嗚咽を洩らした。

「ごめんなさい、……でも私、やっぱり夜だけじゃ嫌なの。あなたとこのまま朝を迎えたいの」

 我儘を言っているのはわかっていた。
 私は貴族。名ばかりとはいえ、その血筋は正統なものだ。
 けれど、彼はーー彼のことは、私がいくら大切なお友だちだと訴えたところで世界はそれを認めはしないだろう。
 それが彼にもわかっているから、幻太郎さんは何も答えなかった。ただ黙って私の髪を撫でた。
 穏やかな時。守られた箱庭。その中で彼の心音に耳を傾け続ける。私と同じ速さで脈打つ鼓動。溶け合う輪郭。そうしていると最初から私たちはひとつだったんじゃないかとすら思えてくる。
 もちろん、錯覚に過ぎないのだけれど。

「……ごめんなさい、取り乱してしまって」

 どれくらいそうしていたか。
 落ち着きを取り戻した私は、羞恥に顔を赤らめながら身を起こした。
 彼は大切なお友だちだ。けれど人には適切な距離というものがある。こうも動揺し、醜態を曝すのは私にとって本意ではなかった。
 でも彼は、「いいえ」と優しい目で私を見た。私を見て、そして。

「舞踏会へ連れていってさしあげましょう。あなたがそう、望むのならば」

 小生にお任せあれ、と彼は言って、茶目っ気混じりに片目を瞑ってみせた。それは彼によく似合っていたけれど、その言葉は彼に相応しくない。

「どういうこと……?」

 戸惑い、首を傾げる私に。その手を取って、恭しく口づけて。

「実は小生は魔法使いでもあるのですよ」

 彼は、その瞳を妖しく輝かせた。