サンドリヨンU


 魔法使い。それはお伽噺の中だけの存在だ。少なくとも、この瞬間まで私もそう思っていた。
 でも。

「うそ……」

 懐から取り出した杖。それを幻太郎さんが一振りすると、瞬く間に私の体に染みついた灰や埃が消え去った。そんなものを見せられては疑う余地などない。

「嘘ではありませんよ」

「え、ええ、それはわかっているのだけれど……でもびっくりしちゃって」

 星を宿した翠の海。きらきら瞬くそれすら神秘的で魔法のよう。
 私はもうすっかり信じこんで、畏敬の目を彼へ向けた。

「気づかなかったわ。あなたがそんな素敵な存在だったなんて」

 彼とは出会いが思い出せないくらい長い時を共有してきた。けれどそんな素振りは微塵も見たことがなかった。違和感なんて、抱いたことすら。

「それじゃああなたはその力を使って……私を舞踏会に?」

「ええ。お察しの通り」

 あっさりと頷かれ、私は黙り込んだ。
 確かに。確かに彼の不思議を使えばそれは造作のないことかもしれない。使用人よりも酷い扱いをされる日々。疎まれるだけの存在。そこから脱することだって、彼になら。

「……いいわ、やっぱり」

 けれど私は首を振った。不思議とひどく凪いだ心で、彼の厚意を固辞した。

「どうして?舞踏会に行けばきっとあなたはよき出逢いに巡り逢えるでしょう。それがこれまでの苦難の対価……神の恵みだとしても?」

 瞳が煌めく。白々とした月光を浴びて。魔法のように私を縫い止める。
 私の頭では彼の言葉が渦を巻いていた。神の恵み。対価。これまでの人生はそのためにあったのだと。幻太郎さんとの出逢いすら神の導きによるものだと。
 彼がそう言っているのだということは本能的にわかった。これが神の試練に耐えた者への施しだというのも理解した。神の作った道がお城へと通じているのだということも。
 ーーそれでも、私は。

「……いいの。だって、私の望みはーー」

 静かにその魔的な眼差しを見返す。天使のような、あるいは蛇のような魔性の誘惑を。ただの人間に過ぎない私は、ーーそんな私だったけれど、それでも彼の言葉に抗った。

「あなたと共に在ることだから」

 ーーたったひとつの願いを胸に抱いて。
 そう口にすると、彼の美しい双眸に亀裂が走った。驚き。それを前面に押し出した表情に、私は思わず笑ってしまう。神のごとき人が、驚いている。私の傲慢にも過ぎる言葉を聞いて。
 それは私にちょっとばかしの優越感を与えてくれた。

「私も幸せになりたいわ。誰に何も言われず、日の下を歩きたい。でもそれは……隣にあなたがいてこそなの」

 他の誰かなんて考えられなかった。考えたくなかった。それは幼き日の真っ白な思い出を穢すことだ。過去の私を裏切ることだ。だから私は舞踏会には行けない。それが神の施しであるのなら、なおさら。そこに神の与えた運命がーー特別な誰かがいるのなら、なおのこと私が舞踏会に行くわけにはいかなかった。

「……舞踏会に来るのは名だたる貴族ばかり。王子でなくともあなたには幸福が与えられる。それでも?」

 彼の言葉はその運命を肯定するかのようだった。それを彼も望んでいるかのようだった。
 それを悲しいと思う。私の望みは彼のそれとは重ならない。ーー私の望みは叶わない。

「……それでも。それでも私は、願い続けたい。あなたとの未来を夢見ていたい」

 だとしても、私は願いを捨て去ることができなかった。
 さぁ、っと風が吹いた。木立が揺れ、物悲しい音色が響く。広がる静寂。闇夜のベール。鎖された世界。
 この時私は覚悟していた。この物語の終演を。囚人の気持ちで審判を待った。
 そんな私に、彼は言う。

「……ならば、この手を取ってくれますか」

 差し出された掌。静謐なそれは、闇の中でも光輝いて見えた。

「今ある苦難もこれから来る幸いもーー神との契約すら捨てて、僕と共に来てくれますか」

 それは。
 それは私に信仰を捨てろと言っていた。言っているのと同義だった。『義の人たれ』と教えられてきた私に、彼はそう言うのだ。
 けれど私に迷いはなかった。最初からーーきっと、最期まで。

「あなたとならば……例え硫黄の火に焼かれようと、四十夜の雨に降られようと構いやしないわ」

 私はその手を取った。
 それは原罪よりも遥かに罪深いことだった。唆されたエバとは違い、私は罪と知っていてなお選びとってしまった。明確な意志を持って神の命に背いたのだ。
 だからきっと私は苦しみや悲しみから逃れられない。生涯神の罰に追われ続けるのだろう。
 だとしても、私はその手を取りたかった。彼と共に在りたかった。
 ーーその微笑みが、何よりも大切だったから。

「……よかった、」

 彼は心底幸せだとでも言うかのように目を細めた。それだけで温かいものが広がり、私の心は満たされた。

「私もほっとした。あなたに拒絶されるのだとばかり思っていたから」

「何故?そんなことは有り得ないのに」

 彼はくつくつと笑い、私を抱き寄せた。頬を掠める熱。擽る柔らかな髪の感触さえ心地好くて、私も笑みを溢す。

「これから何処へ?」

「あなたの望みならば何処へでも」

「……私も、あなたがいるのなら何処だっていいわ」

 彼とならカナンへの過酷な旅すら帰還を願わないだろう。シェルの荒野だろうとシンの不毛の地だろうと。マナの奇跡が与えられなくてもいいとすら私は思った。
 それは間違いなく神への反逆だった。だとしてもこの物語の結末は決まっている。少なくとも、私にとっては。
 凡百のありふれた童話と同じように、私の物語も締め括られるのだ。