星の銀貨T


 そして私はページを捲った。

 ーー寒いわ。

 一番に思ったのがそれだった。
 裸足の足はとうに感覚をなくし、悴む指先は震えることすらままならない。それも当然だ。だって私は何も身につけていないのだから。
 両親が亡くなってから一ヶ月。元々貧乏だった私は家を追い出され、家財一式を売り払ったお金すらもう手元になかった。あるのは一着の衣服と、情け深い人が恵んでくださったパンの一切れのみ。
 けれどそれもすべて人にあげてしまった。パンも頭巾も上着もスカートも。お腹が空いている人、寒さに震えている人にみな譲ってしまった。
 そのことに後悔はない。困っている人がいたら親切になさい。それが敬虔な両親の教えだったから、私には一片の後悔もなかった。
 それでも寒いものは寒い。ひたひたと忍び寄る宵闇。深い森の奥、歩くことすら忘れた私は踞り、ただこの苦難が過ぎ去るのを待っていた。

 ーーきっと私、ここで死ぬんだわ。

 遠退いていく意識の中。どこか他人事のように思う。

「あぁ、でも……」

 これで、良かったのかもしれない。
 きっとこの先、私が歩みを止めていなかったら。また困っている人に出会ってしまったら。
 私が最期まで手放せなかった『もの』すら譲り渡さねばならなかったろう。
 そうならなくて良かった。心からそう思ってしまったからーー私はここで死ぬのだとも思った。欲を捨て去ることができなかった私に、神が救いの手を伸ばしてくれるはずもない。
 だから私は安堵の息を最期にひとつ吐いてーー眠ろうと思った。どこまでも深く。何もない無の世界へと。
 消えていこうとした、その時だった。

「……?」

 地面に伏した頭。その頬を何か冷たいものが掠めた。
 柔らかな感触。それが何なのか確かめようとしたけれど、思いとは裏腹に体は言うことを聞かなかった。ただただ深い眠りへと埋没していく意識。それを止める術など私にはなく。

「あぁ、よかった。……あなたを見つけることができて」

 喜色の滲む声音が耳許で響いたのを最後に、私の意識は完全なる闇へと呑まれていった。

 次に私が目を覚ましたのは明くる日の昼過ぎ。たっぷり睡眠を取った私を迎えたのは見知らぬ天井だった。

「……私、まだ夢を見ているのかしら」

 天蓋のついた寝台。しなやかな手触りの夜着。森で記憶の途絶えた私には夢としか思えない光景。
 そう思い、頬をつねる。

「痛い……ってことは、」

 夢じゃないのね、と。私は寝台の上で呆然とした。
 そんな私を現実へと引き戻したのはノックする音。室内に唯一ある扉からのそれに、私は慌てて返事をする。

「おや、気がつかれましたか」

 入ってきたのは年若い青年ーー翡翠色の瞳が印象的な人だった。
 希望と再生の象徴。きらきらと輝く瞳に、私は目を奪われた。穏やかな色に。温かな光に。
 私の意識は縫い止められたのだった。

 夢野幻太郎と名乗ったその人は、彼の敷地で行き倒れていた私を拾ってくださったのだと言う。

「本当によかった。あと一歩遅ければ、」

 彼がそれ以上を言うことはなかった。でも私にはその先の言葉がわかっていた。
 だから私は「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。そうしてから、こんな格好では失礼に当たると思い至る。ベッドに腰掛けたままだなんて。命の恩人に対してあまりに無礼だ、と急いで立ち上がろうとしたのだけれど。

「おっと、」

 床に足をつけた。瞬間、ぐらりと視界が傾ぐ。辺りがぼやけ、焦点が定まらない。痛む頭。上がる息。どこからどう見たって正常じゃなかった。
 そんな私を支えたのは細いーーけれど男性的な一本の腕だった。
 私を抱き留めた彼は、危うげなく震える体をベッドの中へと押し戻した。

「……失礼、」

 一言。囁きが落ちて、距離が詰まる。射抜かれる双眸。私は魔法にでもかけられたみたいに凍りついた。
 しかしそれとは反対に、私の体は熱を帯びている。その事実は額を重ねた彼にも勿論伝わって。

「熱が出たようですね。やはり無理が祟ったのでしょう」

「ねつ……」

 ぼうとした声。それが自分の発したものだと理解するのに数秒の時間を要した。それほどに意識は宙を漂い、思考することを放棄していた。
 それでもいやに体が重たいこと、呼吸が苦しいことは自分でもわかってーー余計に申し訳なさが募る。

「ごめんなさい……、ご迷惑をお掛けして……」

 自身を覗き込む目。カーテンのように垂れる榛色の髪。箱庭の中で、それでも私はなんとか視線を持ち上げた。彼の不思議な目を真っ直ぐに見返した。
 そうすると、彼の目がゆっくりと弧を描く。

「いいえ、構いませんよ。だってこれは僕の望みでもあったのですから……」

 その言葉の真意を聞こうとして。
 けれど私の目は彼の手に封じられてしまった。視界を覆う掌。神の苦難も幸福もーーすべてを遮る暗幕は、容赦なく私を再びの眠りへと導いていった。