星の銀貨U


 私の熱は単なる風邪だったらしく、一週間もすれば元の健康な体を取り戻した。
 けれど私は幻太郎さんの屋敷を離れなかった。ひと月後も、ふた月後も。私は彼の元に居座り続けていた。
 それはーーそう、傲慢な言い方をするならばーー彼がそれを望んでくれたからだ。

「行く宛がないならうちに住むといい」

 ーー小生も独り暮らしに飽き飽きしていたところだからね。

 彼はそう言って、私の手を握った。 
 とはいえ、その言葉をそのままに受け止められるほど私は素直じゃない。人ひとり養うというのはそれだけで大きな負担になる。金銭的にも、精神的にも。
 だからきっと彼の言葉は嘘だったのだろう。そんな気紛れで私のようなちっぽけな存在を救い上げるなんて有り得ない。
 ただ、だからといって本当の理由というのも私には見えなかった。
 見えなかったから、そのうちに私は、彼が神様の遣いか何かじゃないかと思うようになった。そうでなければその善性の理由が思いつかなかった。
 そうしなければ、私はーー。

「名前?どうかしましたか」

 物思いに沈んでいた私を引き揚げる声。雑踏の中にあってもよく通る音色に、私は慌てて首を振る。

「いいえ、なんでも。ただ少し考え事をしていて、」

「ほう」

 興味深そうな相槌。その後で彼は、「その内容をお聞かせいただいても?あなたを煩わせる考え事というのに小生も興味がありますから」と言った。
 私は困り果て、視線をさ迷わす。黒のフロックコート。覗く指先は骨ばっているけれど、とても美しいことを私は知っていた。

「……どうしてこんなによくしてくださるのかな、って」

 緑の怪物。そんなものに見つめられたらひとたまりもない。
 だから私は正直にーーけれど肝心な部分だけは仕舞いこんでーー言葉を吐き出した。
 彼は本当に私を大切に扱ってくれる。身寄りのない孤児ではなく、どこかのお姫様みたいに。
 今日だってーーと私は来た道を振り返る。
 街道に止まった二頭立ての馬車。普通の人が使う辻馬車や乗り合い馬車なんかとは比べ物にならない、品のある装飾が施されたそれに乗って、私たちはこの街に降り立った。その前は汽車をーーそれも最上位の個室を使って。
 元より私は質素な暮らしをしてきた。だから別に普通の人たちと同じ扱いだろうと、私には十分すぎるほどだった。
 なのに彼は私の体だとか安全だとかを考慮して、いつもいつも壊れ物を扱うかのように手を尽くす。私が街を歩きたいと言わなければ、馬車から出すことすらしなかったろう。それは人間元来の善性を信じる私にも奇異に映った。
 ーーしかも、彼の善意はそれだけに留まらない。
 私は今身に纏っているものを見下ろした。
 以前より肉付きのよくなった体を覆うモヘアつきのプリンセスコート。その下には淡いブラウンのドレスが仕舞われている。大きく膨らんだ袖と首回りを隠す襟。腰回りと裾だけ濃い茶色の縁取りがされていて、足許には白のレースが広がっていた。
 頭には大きなリボンの咲いた小さな帽子。手元のバッグにはレースのハンカチと薔薇水、それから扇……すべてすべて彼からの贈り物である。
 それらを見てーー私は改めて分不相応さを痛感した。

「私はあなたに何もしてあげられていないわ。それなのにこんな……」

 続く言葉はそれ以上声にならなかった。そうなるより早く、強い眼差しに射抜かれた。

「あなたは見返りを求めて施しをしていたのですか?」

 違うでしょう、と。
 言外に彼は告げて、私の反論を封じた。だから私は口ごもり、結局これまで通り彼の優しさを甘受するしかなかった。
 そんな微妙な表情をする私に、ふと彼は目許を和らげる。

「僕があなたを気に入った。ただそれだけではいけませんか?」

 彼は白い手袋をしたまま私の手を握った。それはエスコートというにはきつく、その強さに私は目を瞬いた。

「貴賤なく、ただの善意で手を差し伸べるあなたを。……幼い時に貰ったたった一枚の銀貨を大切にするあなたを」

「っ、なんでそれを知って……」

 驚きに目を見張った私が追求しようとした、まさにその時。

「あれは……」

 視界の隅の人影が目に留まった。
 それは子供だった。寒さに震えることすら忘れ、ただぼうと終焉を待つばかりのーーかつての私と同じ、子供だった。
 そう思った時にはもう私の手はコートの釦にかかっていた。せめて、寒さを凌ぐためのものを。それが例え偽善と言われようとーー私はそうするのが当たり前だと思っていた。

「……いけませんよ」

「どうして……」

 そんな私を押し留める手。制された私は、さぞや非難がましい目を向けていたことだろう。
 なのに彼は小さく笑って、それからその最上級のコートを脱いでしまった。……私の代わりに。
 そしてそれをなんの惜し気もなく、見知らぬ子供の体にかけてやったのだ。

「人を呼びましょう。小生だけでは手に余りますから」

 彼はそう言うと、すぐに従者を呼んで、子供を教会に預けるよう命じた。自分の支援する教会ならば悪いことにはならないだろうと。
 そうした後で、何もできなかった私を振り返った。
 その顔には満足げな微笑すらあってーー咎める色のないことに、私は胸を撫で下ろした。安堵し、私は気になっていたことを訊ねた。

「どうしてこんなことを?」

 どうして私を止めたのか。それなのにどうしてあなたはその奉仕を行うのか。
 それもまたいつものようにはぐらかされてしまうのでは。そう、私はどこかで思っていたのだけれど。

「簡単なことですよ。僕が名前に身を切ってほしくなかった。ただそれだけです」

 そこで彼は目を細めた。私の錯覚でなければーーひどく愛おしげに。神よりもずっと温かな眼差しで私を照らした。

「今のあなたにあるのは小生が与えたものだけ。そしてそれは僕があなたと繋がっていたくて与えたものです。だから……」

 彼の手が伸ばされる。私にーー、私の頬に。手袋越しの冷たい掌が私に触れた。それが少しだけ寂しく感じるのはどうしてだろう。私にはただ、思い出さえあればーーそれでよかったのに。

「だからあなたの持つものすべてを、僕は手放したくない」

 それなのに私は、その言葉を嬉しいと思ってしまった。

「……あなたが、あの時の子だったのね」

 脳裏に過る記憶。過ぎ去りし日、幼い頃の私とーー彼。
 確信を持って呟くと、彼は笑みを深めた。それが何よりの証拠だった。
 まだ私がずっと小さな子供だった頃。かつて住んでいた冬の厳しい土地で、私はひとりの少年と出逢った。町外れには似つかわしくない、どこか品のある少年と。
 なのに彼は外套一枚羽織ってなかった。家に忘れてきたのか、それとも誰かに奪われたのか。わからないけれど、子供の私はそれを放っておくことができなかった。
 だから私は彼に自分の上着をかけた。当時から貧困に喘いでいた私の、薄っぺらな一枚を。そんなものでも少しは役に立つでしょうと、私は思ったのだ。
 それは見返りのない善意だった。子供の頃から染みついた習慣のひとつ。己に試練を与えてでも人に優しくしなさい。そう言われてきたから、何も考えずに私は行動した。
 なのに少年は私に一枚の銀貨をくれた。これしか今は手持ちがないんだと酷くすまなそうに言って。
 ーーそれが、私にはとても嬉しかったのだ。
 そんなことばかりしている私たち家族を、町の人たちは哀れむか或いはーー……、だから、彼の真っ直ぐな感謝の言葉が堪らなく嬉しかった。
 銀貨を貰ったのは、私がただ繋がっていたかったから。この日の思い出と、喜びとを忘れずにいたかったから。
 だからお守りのようにその銀貨だけはずっと手放さずにきたのだ。

「ようやく思い出してくれましたか、」

 ーーその少年が、今目の前にいる。
 故郷の雪国から遠く離れたこの街で。運命のような再会を経て、私に触れている。
 ーーこれ以上の喜びがあるだろうか。

「遅くなってごめんなさい。それから、ありがとう。今も……あの時も」

 私は彼の手に自身のそれを重ねた。
 それだけで彼は嬉しそうにはにかむからーー私にはもうその想いを受け入れる他なかった。彼の望みを。私に神を信じる心を捨てろと言う彼を。受け入れて、信仰を過去のものにするしかなかった。
 なのに私の心は満たされていたからーーとうに私の神は失われていたのだろうが。