人魚姫T
そして私はページを捲った。
それは私がいつもの礼拝を終えた時だった。
背後でガタンと音がした。その重さに驚き、振り返る。
そんな私の視界にあったのはーー
「だ、大丈夫ですか!?」
それは人だった。
聖堂の中、倒れ伏す人。その肩は大きく上下し、目に見えて異常だと訴えている。
私は慌てて駆け寄ると、その体に触れた。肩に手を回し、頭を起こした。
そうすると隠されていた双眸が明らかになる。
震える睫毛。幕の上がる眼。
「…………、」
戦慄いた唇にもその頬にも血の気はない。だというのに彼は心底嬉しいといった様子で顔を綻ばせるのだった。
けれどその声を聞くことは叶わなかった。
話せないのだーー次に目覚めた時、彼は繊細な筆致で私に語った。
その伏せられた目は本当に苦しそうで。私にはそれ以上を追求することができなかった。
しかしその代わりなのか、彼の筆は雄弁に言葉を紡いだ。その瑞々しさは文字であるからこそかもしれないと思わされるほどに。
だから彼、幻太郎さんとの生活に私はさしたる障害を感じなかった。
教会の中、生活棟の一室。私とまったく同じ間取りの部屋で、彼は寝起きしていた。
「おはようございます、幻太郎さん」
この日も私は彼の部屋をノックする。もちろん声はない。代わりにサイドテーブルが二回叩かれた。それが合図だった。
私が部屋に入った時、彼は既に身を起こしていた。そうしてその端正な顔に儚い微笑を浮かべた。
小さな部屋の簡素なベッド。そんなものすら彼がそこにいるだけで美しいもののように見える。家具だって私とまったく同じものを使っているはずなのに。
「今日はいいお天気ですよ、昨日の雨が嘘みたい」
私はカーテンを開ける。差し込む日差しは白々と燃えていて夏らしい。酷く暑くなるのだろうなという予感を私に抱かせた。
「今日は何をしましょうか?」
彼の望みに答え、その部屋でふたり朝食を済ませる。そうしてしまえば特段目的というものはなくなってしまう。
だから私は何の気なしにそう訊ねた。買い物に出てもいいし、彼の好きな図書館で過ごすのもいい。最初は足の不自由な彼が不便を感じないように、と行動を共にしていたはずなのに。今では私の方が彼と過ごす時間を楽しみにしていた。
けれど声を弾ませた私とは反対に、彼は思い悩むような仕草を見せた。そうしてから、その手はペンを取る。
さらさらと流れる文字。川の流れのような流麗さを感じさせる手。それは私に思いもよらぬ言葉を突きつけた。
『礼拝に行かなくてよいのですか?』
「それは……」
咄嗟に。問われ、私は言い淀む。
別に悪いことをしているわけではない。今日は土曜日。主日ではないのだから、これといった決まりもない。
なのに私は言葉に詰まった。何故だかわからないーーいや、本当はわかっているはずだーー罪悪感が首をもたげる。心に降り積もる蟠り。深い霧に見舞われたような気分だ。
主よーー私の心を導き、あなたにふさわしく仕える者としてくださいーー
私の指先は、知らず知らずのうちに胸元のクルスを探ろうとしていた。
ーーけれど。
「……、」
それより早く、彼の手が伸びる。
触れた温もり。生きた人の感触。目を丸くする私に、彼は何事か言いかけてーー諦めた風に微笑んだ。
『少し外に出ませんか。こんなに天気もいいことですし』
気を遣わせてしまったのは明白。しかし彼は私に肯定以外の言葉は求めていなかった。
「ええ、そうですね……」
その微笑に押され、私もようやっと頬を緩めることができた。
海岸線沿いを歩くと湿った風に体を煽られる。鼻につく塩の香り。粘つく感触はあまり好きではなかったけれど、幻太郎さんの楽しげな目を見ているとそんな感情はどこかに吹き飛んだ。
「海、お好きなんですね」
『ええ、まぁ。嫌いではありませんね』
けれど彼は曖昧に言葉を濁す。
ーーあまり聞かれたくないことだったのかしら。
私は内心様子を窺った。が、彼がそれ以上の感情を発露することはなかった。顔色も変わらない。
ーー気のせいだったのかも。
思い直し、私は車椅子を押す。その重さすら今の私には心地いい。足取りは軽く、見るものすべてが美しい。地平線に消えていく空も青ざめた海の色も。日にけぶる彼の瞳も輪郭も。
ーー好きだ、と。そう思ってしまう。
『名前さんは?』
「え?」
『あなたはお好きですか、海、』
振り仰ぐ眼差し。双眸は深く、吸い込まれそうなほど。あるいはそう、深海に落ちていくかのような。
「私、は……」
夢を見た。その瞳の奥に。
沈んでいく夢をーーではない。私が見たのは大海原。空に伸びるまっさらな帆。白い入道雲の向こう、誰も知らない場所を目指す私の姿だった。私と、それからーー。
「……憧れているんだと思うわ、きっと」
彼は何も言っていないのに。なのに私の口はひとりでに動いていた。操られたみたいに。呑まれたみたいに。
ーー私は、きっと
「どこかに行きたいの。この海すら越えたどこかに」
神の手すら及ばぬほどのところに。
きっと私は至りたいのだろう。
「……なんて。そんなこと考えるのがいけないんでしょうね」
そう苦笑する私に、けれど彼は笑わなかった。驚くほど真面目な顔で、彼は私の手を握った。
「幻太郎さん?」
『名前さんはどちらを望まれるのですか?天国に行くことのできる不自由な人間と、例え泡になるとしても自由に海を越えられるのと。……どちらが本当の望みなのですか』
その問いに、私は答えられなかった。