終戦
殷兵を黄河まで追いやった頃。
「匂いが……?」
不意に、甘やかな香りが引いていく。それは空気に溶けるように薄れ、やがて跡形もなく消えていった。
それに伴い、殷兵からも戸惑いが生まれ出す。ーー誘惑の術が切れたのだ。
「終わった……のか?」
だが理由がわからない。妲己はなおも健在で、この期に及んで余裕の表情を崩していなかった。だというのに、なぜ。
「嫌な予感が……」
「奇遇だね、僕もだよ」
険しい顔つきのまま、楊ゼンと辺りを見回していると。
「いやぁぁぁん太公望ちゃんがいぢめる〜ん{emj_ip_0834}紂王さま助けてぇ〜ん{emj_ip_0834}」
妲己の芝居がかった悲鳴が響く。高らかに、ーー開戦を告げる銅鑼のように。
響き渡り、そしてーー。
「予こそは支配者……天子紂王なり!!」
妖怪仙人を引き連れた紂王が現れた。
しかし何より驚きをもたらしたのはその容姿だ。紂王は四十を越えているはず。なのに今目の前にいる彼は、どこからどう見ても幼い少年であった。
「全員んんん〜〜〜ん……、死刑ぇぇぇ〜〜〜ぇっ!!!!」
だがそれは見かけだけのことだったらしい。
妲己によって作り替えられた紂王は、最早怪物と言う他ない。その異様な姿も、民に躊躇なく拳を振るう様も。それは到底王と呼べるものではなかった。
「行くさ紂王!!!」
そんな紂王に立ち向かうひとつの影。ーー黄天化。莫邪の宝剣を振るう姿に、胸が詰まる。
己の怪我などもうどうだってよかった。痛みも気にならない。それよりも彼が傷つく姿の方がーーそれでもなお剣を振るうのを止めぬ姿の方が、よほど苦しい。
止めたかった。それ以上はいけないと。彼を戦いから引き剥がしてしまいたかった。けれど同時に彼の望みを叶えたいとも思っていた。本懐を遂げてほしいとも。最期まで戦い抜くのが彼らしいのだとも。
思っていたから、名前は目を逸らすことをしなかった。彼が紂王の手中に囚われても。その体から血が流れ出すのを認めても。引き裂かれそうな心を抱えたまま、名前は黄天化の戦いを見守った。
ーーそして。
「オヤジも……四大諸侯もあそこにいるあんたの兵も……みんなとっくにあんたを見捨ててるさ!!」
「ウソだ!!!」
紂王の視線が兵へと向けられる。そしてその巨躯は羽ばたき、迫りーー
「うわっ来たっ!!!」
「逃げろーっ!!!」
容赦なく兵たちを押し潰した。己の家臣であるはずの彼らを。羽虫でも潰すかのように紂王はその命を摘んでいった。
「おまえ達なぜ周のやつらと戦わん!!?なぜやつらと馴れあっているのだ!!?」
「やっ……やめろ化物……」
だが紂王の視界には留まらない。止まらない。怒りに震える彼はもうーー人としての感情すら見失っているのだ。
「もうやめろ紂王!!もう誰もオメーを王とは……いや!人とは認めちゃいねぇよ!周りを見てみな!!」
一番に声を上げたのは武王だった。けれどその後ろには黄家の者たちが控えていた。かつては殷王家にーー紂王に忠誠を誓った家臣たちが。
一兵卒に至るまでもが、今の紂王には付き従うことができない。
「紂王よ…、足元を見よ……。見えなかったのか!?おぬしの民の姿が!!!」
その足許には彼が殺した民がいるのだから。
「いやだ……愛してくれ……みんな予を愛してくれ……」
妲己を求めさ迷う紂王。しかし彼女の姿はない。戦場のどこにも。
「予は……予は……」
そして追い詰められた紂王から、とうとう土塊の鎧が剥がれ落ちた。
その中にいるのは子供の姿ではない紂王だった。子供のように膝を抱え、震える紂王がいた。
「ナニぼーっとしてるさみんなっ!!!今こそ天子の首を取るチャンスさ!!!」
誰もが目の前の光景に言葉を失っていた。武王や楊ゼンですら。
しかしその沈黙を破った者がいた。ーー天化だ。
彼は確かな決意を目に灯して、紂王に剣を振り下ろした。
ーーけれど。
「なっ……!!!」
その剣が届くことはなかった。
「ククククク……、こいつがここで死んじゃあ歴史が変わっちまうんでな……」
黄飛虎の命を奪った男ーー王天君の声が響き、紂王の姿は何処かに消えていったのだ。
「…………、」
王天君は朝歌へ来いと誘った。
しかし今すぐ発とうとする天化を太公望は諌める。あくまで武王が殷を滅ぼしたという事実が大切なのだと楊ゼンにも言われ、天化は口をつぐむ。
けれど彼が納得したわけではないのが名前にはわかった。焦りを帯びた表情。脇腹の傷を気にする仕草。歯噛みする彼が何を考えているのかーー名前には痛いほど伝わってきた。
だから名前は何も声を掛けられなかった。名前を呼ぶ、そんなことすらも。