武官、邑姜に看病される
「……いたっ」
「あぁ、もう。大人しくなさってください。酷い傷を負ったのですから……」
夜の帳が降りる頃。周軍宿営地にて、名前は何故か呂邑姜から直接の看病を受けていた。
操られた周兵に貫かれた腹部。それは楊ゼンが呼んだ仙人、雲中子によって既に縫合されていた。
ただしあくまで応急処置であり、治癒は自然に任せるのが一番とのこと。しかも戦場で麻痺していた名前は気づいていなかったが、それ以外にも数え切れないほどの怪我をしているらしく。
油断は禁物だと楊ゼンからも言い含められてしまった名前は、すっかり寝牀の住人となっていた。
そんな名前を見舞ったのが邑姜だった。
たった一度、一言しか言葉を交わしていないというのに。それなのに彼女はわざわざ名前の天幕まで足を運んでくれた。
しかもそれだけでなく。先述した通り、彼女は名前の着替えを手伝ったり、包帯を巻き直してくれたりなどまでしてくれた。
ここまで手厚くされて、何故と思わない方がおかしい。
「あの、良くしてくださるのは嬉しいのですけど……、あなたの手を煩わせるのは、」
真新しい包帯を巻いて。すっかり汚れを落とした名前は、寝牀へと引き戻されながら、おずおずと問い掛けた。
そうすると少女の聡明な眼が名前へと真っ直ぐに向けられる。心の奥底まで見透すような目。それは太公望を彷彿させて。
「私があなたと話してみたいと思った。それだけです」
「話……」
名前はすっかり彼女の不思議な目に囚われてしまった。
鼻先が触れ合いそうな距離。それほど近くで、邑姜は名前をじいっと見つめる。
けれど不快ではなかった。たぶんそれは彼女の声があんまりにも清涼なものであったからだろう。
「興味がありましたから。武王に一番近しい家臣。仙人とも関わりの深い人間。……太公望さんが心許した人ーー名前さん、あなたに」
彼女の目は真剣だった。戦場に降り立った時と同じく、嘘偽りのない表情で名前を見つめていた。
「わたしはそんな……」
だから名前は戸惑いながらもそれ以上の否定はできなかった。わたしはそんな大層な人間じゃない。続く言葉は舌の上で溶かされた。
「……まぁ、あなたが気づいていないならそれでもいいんですけど」
そう言って、邑姜は顔を離す。その容姿に不釣り合いなほど落ち着いた表情からは、相変わらず何を思っているのかが読み取れない。
「……あの、邑姜どの、」
ーーただ、名前は。
「あなた自身はどう思いましたか、わたしのこと……」
人から聞いた話ではなく。彼女自身の印象を聞いてみたかった。彼女の目に映る名前がどんななのか。気になったのは彼女が太公望に似ているからだけではなく、彼女が姜族の統領だからというだけでもなくーー。
彼女のことを好ましいと感じている自分のために、名前は訊ねたのだった。
「……、」
それはきっと賢い少女にも伝わってしまったのだろう。
邑姜は出逢った時と同じように微かに目を見開いてーー
「ふふっ……」
おかしそうに、ちいさな笑みを溢した。
「そんなこと、真っ正面から聞かれるとは思わなかったわ」
「そ、それは……」
そう言われると名前は何も返せない。口にした時は思いもしなかったけれど、指摘されるとぐうの音も出なかった。
あたふたとする名前を、しかし邑姜は微笑みを浮かべて見ていた。その目は年相応の輝きを宿していて。
「私も気に入りました。あなたのそういう真っ直ぐなところ。嫌いじゃないわ」
「邑姜どの……」
名前もつられて笑みを返した。
そうしてから、「わたしもです」と邑姜の手を取った。
「あなたのこと、きっと好きになるって……一目見た時からそんな予感がしてました」
それは名前の正直な気持ちだった。けれど邑姜は少しだけ眉を下げて、ーー目許に恥じらいを滲ませた。
「でも、その馬鹿正直さには気をつけた方がいいと思うわ」
「ふふっ、……はい、気をつけますね」
束の間の休息を、邑姜と楽しんだ。
ーーけれど。
「あなたには何を言っても無駄でしょうけど」
そう前置きをして。
邑姜は名前の手を握った。射抜く双眸。思いを見透かす視線。それで名前は諒解した。ーー彼女の言わんとすることが。
「……はい、わたしは行きます。誰に止められようと、最期まで」
「……そう、」
答えると、僅かに彼女は眉根を寄せた。
けれどそれ以上を言うことはなかった。止めることも、諌めることも。邑姜はせずに、ただ一度だけ名前の頬を撫でた。
「……お気をつけて」
「……はい」
また会おうとも約束はせずに。未来のことにはひとつも触れずに。
出逢ったばかりの少女は名前の選択を受け入れてくれた。