天化、運命を選ぶ


 周軍宿営地では、夜が更けようとどこか浮き足だった気配が残っていた。
 それもそうだろう。牧野での戦いは決し、後は朝歌に入り紂王を討つのみーーしかもその紂王は手負いだ。一振り、剣を振るっただけでこの革命は終結する。勝利はもう目の前だった。
 そんな篝火を背にして、天化は自身の天幕をそっと抜け出した。ーー朝歌へとひとり、向かうために。
 誰も天化の行動には注意を払っていなかった。他のことに気を取られた人々の目を避けて事を起こすのはあまりに容易だった。
 しかし繋いだ馬を一頭連れていこうとした時、ざっと足音が聞こえた。

「……名前、」

 落ちる人影。今日の夜空のように煌めきを灯した瞳。吸い込まれるような双眸は、真っ直ぐに天化を見つめていた。
 そんな彼女の唇が、ゆっくりと動く。溢れる吐息。震える睫毛。何もかもが天化にはよく見えた。

「……ゆくのですか」

 どこに、とは言わなかった。天化も触れなかった。だって名前はわかってる。天化の考えていること、これからなそうとしていること。すべてを見透かした彼女に、今さら取り繕う必要はなかった。

「……あぁ、」

 だから天化は顎を引くことで答えた。それから、「止めないでくれ」と告げた。

「俺っちは行かなきゃなんねぇさ。誰のためでもなく、自分自身のために」

 勝手なことをしている自覚はあった。太公望の目的も、楊ゼンが言うことも頭では理解している。ーー紂王を討つのは、武王でなければならない。でなければ、妲己と同じになってしまう。仙道が人間界の決定的な転換期に直接手を加えてはならないのだ。
 それを理解していて、それでもなお天化は紂王を討つために朝歌へ行こうとしている。ただ己の生きる理由のためだけに。
 誰のために、なんのために戦うか。父を越えるのが目標だった天化にとって、彼を亡くした後はそれさえわからなくなってしまった。なんのために戦うのかーー生きるのか。
 しかしそこに一筋の光が差し込んだ。
 亡くなった人の遺志ーーそれを受け継ぐために生きる。
 そう言ったのは、目の前に立つ名前だった。だから天化は『殷を倒し周を造る』という父の理想を受け継ぐことにした。それを成すことこそが自身の生きた証だと思った。
 けれど天化には時間がなかった。
 妖怪仙人に負わされた怪我ーー止まらない血、塞がらない傷口。それは紂王との戦いの後から一層痛むようになっていた。
 命が尽きようとしている。灯火は儚く、蝋は溶けきる寸前だ。自分のことだから、天化にはそれがよくわかった。
 だから今、朝歌へと向かう。太公望の命に逆らってでもーー例え名前に止められようと。
 けれど、望めるのならば。
 
「……できれば、名前には送り出してほしい」

 いつだって名前は天化の傍らにいた。天化が思い悩んだ時、心が弱った時。彼女はいつも静かに寄り添って、心を重ねてくれた。
 そんな彼女だから、受け入れてほしかった。我が儘な自分の選択を。受け入れて、見送ってほしかった。成功を信じていてほしかった。
 けれど名前は首を振った。「それはできません」そう落ち着いた声音で言って、天化に歩み寄った。
 ーー力業で引き留められるのだろうか。

「ダメだ名前、あんたはまだ怪我して、」

 それはできれば避けたいことだった。自分が勝つにしろ、負けるにしろ。名前を傷つけることだけはしたくなかった。
 戦場で。牧野での戦いで彼女が重傷を負ったと聞いた時、絶望的な気持ちが天化を襲った。それは彼女が助かったと知らされた後も変わらなかった。
 ーー自分が深手を負っていなければ。
 大切なたったひとりの女の子すら守れないなんて、と。酷く絶望的な気持ちでいた。だからなおのこと天化は早く終わらせたかった。彼女が傷つくこの戦いを。
 しかしそう思う天化に、名前は手を伸ばす。

「……私も、連れていってください」

 触れた指先。包み込む掌。柔らかいのに、力強い手。それにどれだけ救われてきただろう。どれだけ愛おしいと思わされてきただろう。
 名前は天化の手を取って、そしてもう一度目を上げた。清らかに、真っ直ぐに。天化だけをただ見つめていた。他の何もかもをーー国だとか使命だとか、そうしたものすら置き去りにして。

「どうか最期までお側に。私にあなたの戦いを見届けさせてください」

 名前は、澄んだ瞳で天化を見ていた。悲しみを奥に沈めて。それでもなお天化の選択を受け入れてーーその上で、共にいることを選んだ。ーー選んでくれたのだ。

「……バカだな、名前は」

 彼女は何もかもを捨てようとしている。今まで積み重ねてきたもの。彼女が大切にしてきたもの。そのすべてを捨てて、天化を選んだ。
 そのことに、どうしようもなく嬉しく思う。わだかまりは確かにあるのに。その選択は正しくないと理解しているのに。
 ーーそれでも、名前と共に最期まで生きていたかった。

「ほんと、大馬鹿もんさ……」

「わかってます。でもお互いさまでしょう?」

「まぁな……」

 名前は微笑んでいた。それは夜闇の中でも天化には輝いて見えた。夜空の星、一等星のように。

「ーー俺と一緒に来てほしい。最期まで、俺の隣で」

 手を離し、今度は天化からその両の手を握り締める。強く、二度と離れぬよう。

「……はい、」

 それに応えてくれた名前が、天化には何よりも尊いものに見えた。


 自分の馬の方が疲労が少ないから、と。名前は愛馬を連れて、その上に跨がった。
 そして手綱を握る彼女に、天化は「大丈夫か」と声を掛ける。

「名前は怪我したばっかさ。やっぱ俺っちが、」

「いけません。天化どのは体力を温存しませんと……。それに怪我のことならばあなただって同じでしょう?」

 そう言われると天化は何も反論できない。紂王との戦いの最中、深く開かれた傷口。そこはなおも絶えず血を流している状態で。
 同じような場所に怪我を負ったというのに、今は名前の言葉に甘えるしかなかった。

「悪いさ……」

「いいえ、ちっとも」

 声を沈ませる天化とは対照的に、馬を駆る名前はことさら朗らかに笑った。

「あなたのお守りの加護があったから、わたしは軽い怪我で済んだのですから」

 天化が名前の髪を結わいた布地。それで一先ずの応急処置ができたこと。それから、懐に入れておいた煙草のお陰で切っ先がずれたこと。それらを名前は感謝し、その後で眉尻を下げた。

「でもごめんなさい。そのせいでお返しできそうもなくて……」

「いいさ、別に。あれは名前にやったもんだからな」

 それは慰めでもなんでもない。天化は本心からそう思っていた。名前がくれたもの、それに比べれば自分のあげたものなんてちっぽけだと。
 なのに名前はそれを重く受け止めているのがおかしかった。おかしくて、そんな考え方をする彼女が愛しかった。

「あっ、……もうすぐ、朝歌ですよ」

 束の間の平穏。かつてに巻き戻ったかのような時間もそう長くは続かない。
 宵闇の彼方。地平線に、大きな城の影が聳え立っていた。ーー禁城だ。
 天化はごくりと唾を飲み込んだ。触れているところから、名前も緊張しているのが伝わってくる。
 ーーもうすぐ、この戦いも終わる。
 その先に何があるのか。
 この時の天化はまだ考えることすらしていなかった。