動くぬいぐるみが我が家にやってきた。
「ぬいー」
……訂正。
動く上に喋るぬいぐるみが我が家にやってきた。
「これ、透に似てる」
安室透という男はそれはそれは甘やかな顔立ちをしているし、恋人がいたら彼女にぬいぐるみを買ってやることくらい造作もないだろう。けれどその本質は外見とは対極に近いところに位置しているし、少女向けの雑貨屋なんて自分の意志で行ったりなどしないことを名前は知っていた。
そんな男が掌サイズのぬいぐるみを手に帰宅した。名前は最初自分の目がおかしくなったのかと思い目を擦ったし、次には透の心配をした。透が持ち帰るくらいだ、もしかしてそのぬいぐるみは思いもがけない秘密を抱えているのかもしれない、と。
その想像はあながち的外れでもなかった。動いて、喋る。ロボットかと思ったが、感触は綿そのもの。日本の技術はここまで進歩していたのか。机上のぬいぐるみをつついていた名前は、そのつぶらな蒼い瞳を見てようやく気付いた。……このぬいぐるみ、透に似ている。
「僕がモデルらしいからね、そりゃあ似てるだろう」
「いつの間にモデル業まで始めたの」
「さぁ?契約した覚えはないな。それは阿笠博士に聞いてみないと」
詳しいことは透も聞かされていないらしい。阿笠博士の方も元々こんなものを作るつもりだったわけではないようで(ではいったい何を作るつもりだったのだろうか)、偶然生まれた動いて喋る上透そっくりのぬいぐるみの扱いに困り、江戸川少年手を経てモデル本人の元にやってきた、というのがことの顛末だと透は語った。
「博士の研究にも興味あったしね」なーんて透はウインクしてるけど、名前は途方に暮れた。
「そんな、危険があるかもしれないのに。第一、生きてるぬいぐるみの世話なんてしたことないし」
「食事は1日5回、綿を出しておけば勝手に食べるって。綿を出して、置いてやる。世話はこれだけだから困ることなんてないさ」
楽観的すぎる。
透は江戸川少年に一定の信頼を寄せているようだし、そりゃあ名前も信の置ける子だと認識しているが。それでも何もかもを知っているわけではないのだ。少年はどちらかといえばFBI寄りのようだし。そこまで考えると、赤井秀一の顔まで浮かんできて名前は顔を顰めた。これもあの男の仕組んだことじゃなかろうか。
そんな時。
「ぬいっ」
テーブルの上でぬいぐるみが跳ねた。短い腕を名前に伸ばし、何事か言いたげである。残念ながらぬいぐるみの言葉は「ぬい」しかないので名前には正確に届かないが、それでもその丸い顔が名前に何かを伝えようとしていることだけは分かった。
……慰めようとしているのかしら。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。だから必死に伸ばされる手に顔を近づけてみる。すると、軽い衝撃が頭に加わった。ぽすぽすと名前の前髪を乱す柔らかな感触と、どことなく気遣わしげな表情。何かが、名前の胸にこみ上げる。
「〜〜〜〜〜っ」
衝動のまま、名前はぬいぐるみを抱き締めた。「ぬいっ!?」と頓狂な声が上がるし、向かいでは飼い主がぽかんとした顔をしているけど、そんなことはどうでもいい。名前はぬいぐるみに頬ずりした。
「だいじょうぶ、あなたのことは私が護るから」
「ぬ、ぬい……!」
「おいおい……」
「ご飯あげてそれで終了、なんてダメよ透。責任持たなきゃ」
「いや、それはただのぬいぐるみだろう」
「ただの、じゃない。愛らしくて優しいぬいぐるみよ」
安室家の新たな住人『あむぬい』は、大層名前の心を癒してくれた。
朝、名前より早く目覚めたあむぬいは、名前の起床時間になるとその顔を叩いて起こしてくれる。おかげで目覚まし時計はお役御免。気持ちのいい朝を迎えた名前は、あむぬいの柔らかなほっぺにキスをする。そうするとあむぬいの方も同じことをやってくれるので名前は鈴の鳴るような笑い声を上げてしまう。くすぐったい朝。名前はあぬむいを伴って朝食の席に座る。自分たちの食事と、あむぬい用の綿。それらをお皿に盛って、いただきます。名前は綿の塊を小さくちぎって、あむぬいの口元に持っていく。「おいしい?」そう聞くと、あむぬいは元気よく返してくれる。「ぬいっ!」たぶん、おいしいということだろう。
朝食が終わるとあむぬいとは暫しのお別れ。名前は学校に行かなくてはならない。
「火元には近づいちゃダメ」「ぬい」「ピンポンされても出なくていいからね」「ぬい」「高いところにも気をつけるのよ」「ぬい」……。こうしたやり取りをしてから、名前は家を出る。その時にも頬へのキスは忘れない。「いってきます」名前が小さく手を振ると、あむぬいは大きく手を振り返す。そうして、名前は足取りも軽やかに学校へ向かった。
夕刻、扉を開けるとあむぬいが出迎えてくれる。「ぬいぬい!」「ふふっ、ただいま」あむぬいを抱き上げるとお日様の匂いがした。「日光浴してたの?」「ぬいっ」「焦げてたりしないかしら……今日は暑かったし……」「ぬい、ぬいっ!」「うん……、確かに大丈夫そうね」「ぬい」あむぬいとお喋りしながら夕食の支度をしていく。モデルに似たのか、あむぬいもやりたがるのだが、これには名前は大反対。傷物にでもなったら名前の方が沈痛のあまりダメになってしまう。そう言うと、あむぬいも不承不承納得してくれた。
あむぬいは入浴しない代わりに、濡らしたタオルで体を拭く。とはいっても短い腕のせいで背中までは手が届かない。そこは名前の仕事だ。恥ずかしそうに身を縮めるあむぬいからタオルを奪い、名前が背中を拭いてやる。ついでに体に傷がないかも確認。それが終わると名前手製の寝間着を着せてやる。あむぬいが来て以来、名前の趣味はもっぱら手芸になっていた。
就寝時間は名前もあむぬいも一緒。あむぬいは付き合ってくれているだけかもしれないが、そうだとしたら余計に嬉しい。空き箱に小さなクッションを敷き詰めた、あぬむい専用のベッド。ベッドサイドテーブル上のそれにあむぬいを下ろしてやり、まろやかな頬を撫ぜる。「おやすみなさい」そうして、穏やかな気持ちで名前は眠りに就く。
新生活は順風満帆。……なのだが、透は不満らしい。
「さすがに構いすぎじゃないか」
あむぬいが来て1ヶ月ほど経ったある晩のことだ。3人は食事も入浴も終え、各々の時間を過ごしていた。ホフマンスタールの手紙を読む透。その隣でレゼーデージーステッチの刺繍をする名前。あむぬいはニュース番組を見ながらうつらうつらしている。そんな中で、ふと透は零した。
「あまり構うのもストレスになるっていうだろう?それが病気にでもなったら困るのは名前じゃないか」
というのが透の言い分。ぬいぐるみが病気に罹るか否かは門外漢なので名前には分かりかねる。けれど透の言葉には説得力があったし、何より名前は彼に全幅の信頼を置いていた。透が言うのなら、やはりあまりいいことではないのだろう。
名前は針を置いた。「そうね……」分かっていても、気落ちするのは止められない。あむぬいにも申し訳ないことをした。これからは自立を促すようにすべきだろうか。でもどうやって?子供の世話なんかしたことがないから、今度こそ本当に途方に暮れた。
「そんなに落ち込むことはないだろう」
しゅんとしょげかえる名前の手を、透は握った。その顔はいつになく焦っているように見える。でもそれを気遣うだけの余裕が今の名前にはなかった。
「こうして構う以外にどう接したらいいか分からないの。やっぱり、家族がいないとこういうのってダメなのね」
「名前……」
「わたし、きっと、この子に家族を求めてた。でも結局真似事で、おままごとでしかなくって、独りよがりで……、悪いことしちゃったわ」
あむぬいには明日謝ろう。それからのことは……また考えよう。「ありがとう、透」間違わずに済んで、よかった。本当に、心底そう思っているのに、浮かべた笑みが引きつる。どうしてかしら、と頬に手をあてていると、透が突然大きな溜息を吐いた。おまけに空を仰ぎ、呻き声を上げ、目元を手で覆っている。
「僕は最低だ……」そんなことまで言う始末!名前は胸のつっかえも忘れて目を見開いた。「どうしたっていうの」透が最低だった時なんてあったろうか。少なくとも名前の記憶にはない。でも透にとっては揺るぎない真実らしく、「最低だよ、僕は」と答えた。
「自分がこんなに大人げないだなんて知らなかったし知りたくなかったけど知らなきゃいけなかったわけで、でもこんな形じゃなくたっていいだろ……」
そう呟いたかと思うと、背もたれに預けた体を起こし、名前を引き寄せる。背中をさすられる名前は目を白黒させるばかり。困惑する名前を置き去りに、透は耳元で囁いた。
「謝るのは僕の方だ。ごめん、名前。キミは真似事だと言ったけど、僕はそうは思わないよ」
「……慰めならいらないわ」
「そうじゃない、そんなんじゃあないんだ」
背中に回された手が力を帯びる。なのにそうしている透の方が苦しそうで、悲しそうで。名前はほとほと困り果ててしまう。彼の真意が分からないのがもどかしい。「じゃあどうして謝るの」名前にできるのは言葉にすることだけだった。本当は、言葉にならない声も聞けたらよかったのだけど。
「ねぇ、真似事じゃないって、透はそう思ってくれるの」
透はすぐに「ああ」と肯定した。けれどその続きを言いかけて、言葉に詰まる。躊躇い。逡巡。でも知りたかったから、名前は彼の背に手を回して応えた。ひゅっ、と息を呑む音が鼓膜を打つ。
「……っ、あぁ、真似事なんかじゃない。本当に母親みたいだった、そう思う。僕が嫉妬するくらい、らしかったよ」
どこか投げやりな調子。それは彼の言葉が本物だという何よりの証拠だった。けれど名前にとって一番嬉しかったのはその内容よりも透が本心を話してくれたということである。さっきまではうじうじと悩んでいた癖に!現金なものだ。
思わず、笑いがこみ上げる。それを聞きつけた透は体を離し、眉尻を下げた。
「笑わなくったっていいだろう」
「ごめんなさい、でも、だって、嬉しくって」
「まったく」拗ねた素振りも、赤みがかった頬で台無しだ。あむぬいも可愛いけれど、モデルの透も十二分に可愛らしいところがある。そんなの、名前はずっと前から知っていたけれど!
そう、確かに透にも可愛らしいところはある。だがしかし。
「でも、名前の笑顔が見られるなら悪くないな」
なーんて、すぐに立ち直ってやり返してくるところはまったくもって可愛くない!