今、願うこと


 ーー最期まで天化と共に。
 そう決意していた名前だったのだけれど、その願いは阻まれた。最初は太公望に。ーー次は王天君に。

「天化どの!!」

「天化!!!」

 天化が不気味な鏡面に吸い込まれていく。黄飛虎のように。紂王のように。しかしそれを止める術が名前にはなかった。
 叫びは届かない。伸ばした手は空を切るばかり。

「おぬし天化をどこへやった!!?」

 膝を突いた名前とは対照的に、太公望は王天君を詰問した。その形相も気にせず、王天君は笑う。
 『やつの望んでいた場所へだ!』それで名前にもわかった。彼は、禁城へと連れ去られたのだ。深手を負ったまま。敵のただ中へと。

「あぁ……」

 ーー絶望的な気持ちが、名前を襲った。
 その頭上で、煌めきがひとつ。

『宝貝紅水陣!!』

「王天君おぬし!!!」

 王天君の高らかな声。それと同時に名前の視界は一変した。
 血のような朱色。薄氷の箱庭が朝歌の都を呑み込んでいた。その向こうで降る霧雨。ーー黄飛虎を焼いた、血の雨が降っている。

『モタモタしてっと愛しの天化ちゃんがさらに愛しの紂王さまをやっつけちまうぜ?しかももっと愛しの朝歌の人間が溶けちまってもいいのかな?』

 王天君は。彼は、酷く残虐な行いをしているというのに、とても愉快だとでも言いたげに嗤った。太公望の願いを、目的を、踏みにじるのが痛快だと。そのために朝歌の民を危険に曝しているというのにーー嗤っていた。

「だまれっ!!!」

 太公望が叫ぶ。常では考えられないほどに喉を絞って。叫び、太極図を振るった。
 「紅水陣を解除せよ!!!」その声に応え、太極図は紅水陣をガラス片のように打ち砕く。
 しかしそれすらも王天君の思い通りらしい。

『よくできました。……だが既にあいつは紂王んトコに御到着してるはずだぜ』

 『もぉ間に合わねぇかもな!』彼の言葉は刃となって名前に突き刺さる。もう、間に合わない。そう言われ、脳裏に描かれたのは朱色。ーー血の海に倒れる天化だった。

「名前ッ!そうしている余裕はないぞ!!!」

 呆然とする名前を一喝したのは太公望だった。いつの間にか王天君の消えた平原で、彼は四不象の背に乗り、名前を呼んだ。

「……はいっ!」

 そうだ。こんなところで立ち止まるわけにはいかない。ーー簡単に、諦めるわけにはいかない。

「急ぐっスよ!!!」

 名前が飛び乗るのと同時に四不象は空を駆ける。
 馬とは比べ物にならない速さで流れていく景色。そんな中を、名前は祈っていた。ただただ、彼の無事を。何者にも阻まれることなくその本懐が遂げられることを。

「かつて道徳が言っておった事を思い出させてくれる……」

 ただ祈るしかできない名前に、太公望はぽつりと呟いた。
 道徳真君。天化の師。今は亡き崑崙十二仙のひとり。
 有能な師範であった彼は、とうに天化の性質を見抜いていた。

『あの子は生まれついての戦士なのかもしれない。たとえ勝ち目がなくても戦おうとする。あの子のあの性格が……いつか命とりならないかと心配している』

 聞きながら、名前は拳を握り締めた。その言葉は名前にも覚えのあるものだった。否定したくともできない。道徳真君の見立てが正しいのだと、何より名前がわかっていた。ーー名前も、同じだったから。




「ここはーー禁城……?」

 その頃紅水陣から解き放たれた天化は、禁城内にある広場に降り立っていた。

「懐かしいな……」

 雲が流れる。隠されていた月が露になる。月光が、広場に差し込む。ーー何もかもを、暴きたてる。

「もう何年前になるのか……。予はここで武成王と戦った事がある」

 静まり返った禁城も。そう呟いた声の主も。

「紂王……、紂王さ?」

 立ち尽くし、天を仰ぐ紂王。そこには牧野で見せた狂気の一端すら見受けられない。色の抜けた髪。窶れた顔。光のない瞳で、彼は何を見ていたのだろう。ーー何を想っていたのだろう。
 その視線が、天化へと向けられる。

「……おまえは武成王によく似ているな。黄……天化とかいったか……」

 そう言った紂王の手には二本の長刀。咄嗟に天化が思い出したのは牧野での戦いだった。恐るべき力を持った紂王。今の彼とは様子が全く異なるが、紂王が戦意を失っていないのは変わらない。
 彼は、殷の王として天化と対峙しようとしている。
 そう察したから、天化は莫邪の宝剣を構えた。構えて、その刃を出現させようとした。

「……!?」

 なのに、宝貝がその思いに応えることはなかった。
 ーー宝貝が使えない。
 冷たいものが天化の背中を流れた。紂王には父、武成王黄飛虎ですら一度負けた過去がある。
 ーー宝剣なしで戦えるのか。しかも、この手負いの体で。
 焦りを押し隠す天化に、しかし紂王は。

「これを使え……」

 二本あった剣。そのうちのひとつを彼は天化へと投げ渡した。

「さぁ……予と戦うがよい!!若き道士よ!!!」

 驚きつつ受け止めた天化は、紂王を見た。彼の目を。王としての責務を全うしようとする紂王を。

「…………、」

 薄明に染められる地平線。白々とした黎明が闇の帳を持ち上げていく。
 朝の光の中、天化は紫煙を一筋吐いた。それを足で踏み消して、剣を握る。

「ほんじゃあ……行くさ紂王!!」

 そして天化は、地を蹴った。



「……予の負けだ、黄天化」

 勝負は、呆気なく決した。
 打ち合う刃。しかし紂王の剣は、彼の意志を写し出すかのように砕け散った。王でもなく。人でもなく。何もかもを失った彼には、最初から戦う理由などなかった。それでも王であったからーー天化の思いに応えた。
 だが、それも終わりだ。

「さぁ予の首を切って衆目の前にさらすがいい。それで殷は終わる」

 血の海に沈む彼は、その最期を受け入れていた。
 その首に剣を向けーーしかし天化は膝をつく。

「ーーでもあーたの首を切るのは俺っちじゃねーのさ……。後はスースに……太公望師叔に全部任せるよ……」

 天化とて太公望の思いはわかっていた。それほどの長い時を共に戦ってきた。だからこそ申し訳なくも思うし、勝手をした分だけせめてその思いに報いたかった。
 それに、戦いはもう終わったのだ。
 父を倒した紂王に勝った。殷は滅び、周が興る。ーー天化は父を越え、父の望みを果たした。もう、戦う理由はどこにもなかった。
 だから今。心に思い浮かぶのはひとりの女の子のことだった。
 ーー名前、
 平原に残してきてしまった彼女は今頃何をしているだろうか。何を想っているのだろうか。
 きっと、ひどく心配しているに違いない。
 それを悪いなと思うのに、同時に再会した後のことを考えてーー天化は笑った。
 その目が天化だけを映すのを。困ったような顔をしながらも、最後は天化を受け入れてくれるのも。想像した心には、穏やかな感情が流れていた。

「これでやっと、名前にも伝えられるな……」

 ずいぶん長いこと待たせてしまった。彼女はもうずっと前に心を預けてくれたのに。天化はひとり思い悩み、ずるずるとここまで来てしまった。
 でも、それも今日で終わりだ。
 ーー想いを伝えたら。
 彼女はどんな顔をするのだろうか。喜んで、くれるだろうか。
 ーーそうだといいな。
 想像の中の名前に笑みかけた時。

「……っ、」

 広場に風が吹いた。清涼な朝の風。澄みきったそれは、勢いよく天化を巻き込みーー

「……あっ、」

 手首に嵌めた、柳の枝。名前から贈られた御守りが千切れ、風に流される。
 それを拾い上げようと思わず身を屈めた天化の後ろで。

 ーー白刃が、閃いた。