願いの行方�U


「……好きだ、」

 そう言った彼の目は名前を見ていた。名前だけを見つめて、呼吸をしていた。
 そのことに、一層視界が潤む。ーーあぁ、この人は生きているのだ。掌から零れ落ちることなく。その手は今も名前と繋がっているのだ。
 それがどうしようもなく嬉しくてーー彼を困らせてしまうと思っているのに、涙は止まらなかった。



 周軍宿営地まで戻った天化は雲中子の治療を受け、一命をとりとめた。だがその呪いは未だ解かれていない。ただ血が流れるのを遅らせただけだ。
 だから彼の命は長くないかもしれない。助けられたことを後悔する日が来るかもしれない。
 そう危惧する名前を裏切って、天化は明るく笑った。

「いや、もう大丈夫さ。前線にいられなくても……名前といられるのなら」

 本懐を遂げたから、と。彼は憑き物が落ちたかのように笑う。
 けれど本質は変わらない。戦士であった天化。だからこの先も戦いが恋しくなる可能性もある。
 それでも、と名前は思う。それでもよかった。ただ一時でも、彼と想いを重ねられた。それでもう十分だ。十分、ーー幸せだ。

「……そうだ、」

 ふと、天化は声を上げる。その右手。名前が彼を見つけた時から変わらず握り締められていたその手を解く。
 ーーと。

「それは……」

 その掌の上。現れたのは懐かしいものだった。かつて名前が彼に贈った腕輪。その無事を祈る御守りだった。
 しかしそれは記憶にあるものと異なっていた。輪はほどけ、かつての面影はない。
 いったいどうしたのか。
 そう首を傾げる名前に、天化は眉尻を下げた。

「わりぃ……。風に飛ばされて、そん時に。……でも、」

 お陰で助かった、と。
 彼は愛しげに草臥れたそれを撫でた。これがあったから命拾いしたと彼は言った。

「これを拾おうと思って動いたから……致命傷にならずに済んだ」

 紂王との戦いを制した後。力尽きた彼を、殷の兵が襲った。背後からの急襲。ギリギリまで気づけなかった天化だったけれど、切っ先は体を掠めるだけだった。
 しかし振り返り、見上げただけで兵は逃げ出した。たぶん、仙道が怖かったのだろう。
 それを天化は明るく語ったけれど、名前は内心肝を冷やしていた。
 本当に、危ないところだったのだ。一歩間違えれば。もう二度とこうして話すことすらできなかった。

「名前……?」

「よかった、本当に……、よかった……!」

 思い至り。名前は声を詰まらせて天化に抱きついた。触れる温もりを感じ、また胸を撫で下ろした。
 そんな名前に驚き、しかし天化は優しく抱き止めた。その髪を優しく撫で、「ありがとな」と囁いた。

「名前がいたから俺っちはここにいる。ここにいられるんだ……」

 ーーそんなことないわ。
 言いたかったけれど、言葉にならない。
 今はまだ、このままで。
 ただ彼の温もりを感じていたかった。



 こうして殷王朝は終焉を迎え、新たな時代、周が始まった。
 名前たちが禁城に入ったのはそれからしばらく経った後だった。四不象は先に帰してしまったから、朝歌までは馬での移動となる。怪我したばかりの名前と天化は様子を見てから出発することにしたのだ。
 その間、天祥のことはナタクが面倒を見ていたらしい。天化までも喪ってしまうのでは。そう怯える天祥を励ましてくれていたのだ、と。
 天祥本人から聞いた名前は天化と顔を見合わせ、笑みを交わした。
 なんだかんだナタクは旅の間中から面倒見がよかった。それがどんな切欠であれ、天祥へ向ける思いは本物だ。ナタクは否定するかもしれないが、仲睦まじい二人の様子は家族のようだった。

 そして、周王朝が安定を始めた頃。

「太公望よぉ……、マジで行っちまうのか?」

 太公望は、人間界からの退去をすべての仙道に申し伝えた。
 その出発の朝。武王は不満げにーー寂しさを隠しきれずに食い下がっていた。
 けれど太公望の意志は固い。元よりそのつもりだったのだ。仙道に人としての生を狂わされた経験があるからこそ。仙道の力が時として人間界の害になることを誰よりも知っているからこそ。太公望は戦ってきたのだから。

「わしらはわしらでやる事もあるからのう」

「……そうか、」

 武王は目を閉じた。一度、静かに呟いてから。

「でもよ!これが今生の別れってわけでもねぇよな!」

 王ではなく、姫発として。太公望の友として、彼はその手を握った。朗らかな声で太公望の思いに応えた。

「うむ!」

 二人が笑みを交わす。それを名前は一歩下がったところで見守っていた。名前もまた、別れを告げるために。