願いの行方�V
「……姫発さま、」
歩み寄る名前を、彼は静かな目で見ていた。
「……行くのか」
そこに疑問符はない。姫発は確信を持って口にしていた。行くのか、ーー仙人界へ。彼はそう言っているのだ。
「……はい、」
そしてそれは正しかった。
あの日、牧野での戦いの後。名前は責務を放って天化と共に朝歌を目指した。それはつまり国ではなく個を選んだということだ。
そんな名前に武王の臣下たる資格はない。
だから名前は周を出ると決めた。彼と共にいたい。それもまた真実ではあったけれど、何より自身がけじめをつけなければ納得できそうもなかった。
その思いは姫発にも通じているのだろう。
彼は名前が語るより先にその言葉を口にした。行くのか。そう言った彼の瞳は凪いでいて、驚きも非難も存在しなかった。
ただ、受け入れていた。名前の選択を。責務を放った名前のことを。咎めるでもなく、ただ受け入れてくれた。
けれどそれはただ一度きりのこと。そうでなければならない。そうでなければ国が国として成り立たなくなってしまう。
それを名前も姫発も理解していた。幼年期の終わりを迎えた二人には、ここが終着点だとわかっていた。
「ありがとうございます。これまでのことも、これからのことも」
晴れ渡る空の下。清々しい空気の中。穏やかな陽光に彩られた主君を見上げーー微笑んだ。
「あなたの臣下であれたこと、誇りに思います」
幸福な日々だった。彼と共に生きた二十年近い時間、それは間違いなく名前に多くの幸いをもたらしてくれた。
主君が姫発でよかったと心から思う。背中ではなく隣で同じ景色を見てーー同じ夢を描いて。そうして生きてこれたのは、彼が王だったからだ。
だから、と。
「これはお返しします」
名前は腰に下げていた剣を差し出した。
武王から賜った長刀。彼の臣下である証。それを名前は姫発に差し出していた。これがけじめだと、臣下でない者が持っていてはいけないと。
「……いや、それは名前が持っててくれ」
けれど姫発が受け取ることはなかった。
彼はゆるりと首を振り、ーー笑った。
「その剣はお前にーー我が友にあげたものだ。だから、」
ーー変わらず、そのままに。
姫発はそう言って、目を細めた。
それはどこか寂しげでーーなのに眩しいものでも見たかのようだった。名前、と。そう呼ぶ声も。
だがそれ以上を彼が言葉にすることはなかった。名前もまた聞くことをしなかった。そうしてはいけないとなんとなく感じ取った。
だから名前は頷くだけに留めた。
彼が先刻言った通り、これが今生の別れと決まったわけではない。ならばこれ以上言うことはなかった。言う必要もなかった。
「……なぁ、名前、」
その目を見れば、伝わってきた。
冬の冷ややかな風がふたりの間を吹き抜ける。広がる静寂。物言いたげな眼差し。
見つめ合い、そしてーー
ーー大丈夫か、と。
彼はその目で訊ねていた。最後までその身と未来を案じ、手を差し伸べていた。いつでもこの国は歓迎する。そう彼は視線だけで語っていた。
「ありがとうございます。でも、わたしは……」
だから名前もちいさく首を振るのに留めた。
言葉はいらなかった。なくても通じ合えた。これまでもーーこれからも。
遠く離れたって変わりはないと、名前は確信を持つことができた。
「そうか、」
姫発は呟き、それからニッと口角を上げた。かつてのように。名前の知っている幼馴染みの顔で。
「じゃあな、」
笑って、手を振った。
崑崙山と金鰲島の落下地点。そこには太乙真人が開発した崑崙山2ーー仙道たちの新たな拠点があった。ここから妲己がいるであろう第三の島を目指すのだ。
「十分の一とのことですが……、手狭な感じはしないですね」
元より崑崙山は名前の常識をはずれたものだった。だからその十分の一の大きさとなっても、名前からすれば十分な大きさだと思う。
そんなことを思いながら崑崙山の中を見て回っていた名前だったが、隣を歩く天化の表情は暗い。
「そうだな……」そう答える声も心ここにあらずといった風で。
「どうかなさいましたか?……まさか傷が、」
怪我の容態が思わしくないのか。
急な移動はどうしたって体に負担をかける。今の天化にはなおのことだ。だから、と名前は焦燥を滲ませたのだけれど。
「あぁ、いや、そういうんじゃねぇさ」
慌てて天化は否定の語を紡ぐ。それでも名前の顔が晴れないと見るや。苦笑して、その頭を撫でた。
「悪い、けど本当にそれは問題ないんだ。ただ……、」
「ただ?」
らしくもなく、なおも食い下がる。ただこの点に関してはおざなりにすることができなかった。天化のことであったからーー何より大切な、たったひとりの人のことであるから。
正直に話してほしい。たとえそれがどんな結果であろうとも。
そう思いを籠めて、名前は天化を見上げた。少しの変化すら見逃さない、と。じっと見つめる。
すると。
「……大したことじゃない、それは本当さ」
観念したように。天化はぽつりと溢した。伏せられた目は決まりが悪いといいたげで。
「ただ、」と天化は続ける。視線をさ迷わせ、言葉を探し。
「さっき王サマと何話してんのかなって……気になっただけさ」
名前は目を瞬かせた。思いもよらぬ言葉。それは名前を驚かせるには十分すぎる効果を持っていた。
「何って……」天化が気にかけるほどのものではない。名前と姫発のーーふたりだけの別れだった。
けれど天化は。気まずそうにしながらも、けれど続く言葉を待っていた。名前が何を言うかを、じっと。
それは初めて見る表情だった。名前の知らない、彼の一面だった。
「……名前?」
だから、名前は。
思わず手を伸ばしていた。その手を包み、温もりに触れた。今手の中にある幸福を確かめたいと思った。
「知らないこと、まだまだたくさんあるんですね、わたしたち」
それはとても幸運なことだろう。
そう思い、名前は微笑んだ。
語りたいこと。聞きたいこと。どんな些細なことも、きっとそれは幸福に繋がっている。そう、未来を信じることができた。
「……そうだな」
失ったものは数えきれない。切り捨てたものも、手放したものも。
ーーけれど同じだけ、大切なものも手に入れた。
それが零れ落ちることのないよう、名前は強く手を握る。
「ねぇ、天化さんーー、」
つま先で立ち、その耳許に唇を寄せる。囁くのは願い。これから先も共にあれるように、と。
「あぁ、……」
その想いに天化は笑顔で応えた。名前の一番好きなーー初夏の日差しのような瑞々しい目映さでもって。