人魚姫U


 手を組み合わせ、目を閉じる。思うは主、その存在への信仰、祈り。
 なのに私の心は晴れない。薄らとした霧が垂れ込めたまま。どれほど祈っても願っても、永遠の幸福を信じきることができなかった。

『……大丈夫ですか?』

 ともすれば深みに落ちてしまいそうな意識。それを引き留め、引き揚げたのは柔らかな手だった。
 聖堂にて、跪いた私の目線からは少し上。車椅子に乗った彼は私の肩に手を添えていた。

「幻太郎さん……」

 呟くと、彼は優しく微笑んだ。それは私の何もかもを赦すかのようで。彼は神でもなんでもないのに、私はほっと表情を緩めた。

「どうかなさいましたか?あなたがこちらにいらっしゃるなんて珍しい……」

 現在こちらで保護しているとはいえ、彼はこの教区の人間ではない。教派も宗派も違う。というより、彼から信仰についての話は聞いたことがなかった。
 そんな彼が、聖堂になんの用だろうか?
 そう訊ねたのだけれど、その質問は曖昧な笑みで濁されてしまう。
 『あなたがいると思ったから』ーー綴られた文字に、私は目を瞬かせた。

「急ぎの用ですか?」

 だとしたら申し訳のないことをした。
 その感情も露に再度聞き返す。
 すると、彼は。

『……結婚するというのは、本当ですか』

 少しの暇。躊躇ったようにさ迷わせ、そうしてから彼は筆を走らせた。いつもより歪な文字を。震え、崩れそうな言葉を。声よりもずっと雄弁に語ったのだ。
 そしてそれは私の心をも映し出していた。

「……聞いたのね、」

 誰から、と問う必要はなかった。それは限られた人たちだけだったからーー彼らの会話を聞いてしまったのだろうという予想は簡単についた。
 私は椅子に腰掛けた。彼はその隣、物言いたげな目をして私を見ていた。詳細を。そう言いたいのだとわかる眼差し。
 私はそれから逃れるようにして前を見た。祭壇の向こう、映るのは受難の像。十字架への道行き。
 ーー主よ、
 われらを試みに引き給わざれ、われらを悪より救い給えーー

『あなたはそれでよいのですか?』

 祈りを遮ったのは、やはり彼だった。
 彼は無垢なる瞳で私に問い掛けていた。それでよいのか。その道の行く末を本当に信じているのかーー、と。
 そして、私は。

「……良いことなのだと思うわ、きっと」

 目を逸らすことしかできなかった。
 相手の方のことは知らない。ただ、たいへん熱心な信徒であること。寄附も多く、教会にファミリーボックス席を有していること。……教会にとってもプラスになることだけは聞かされた。だからたぶん、これは良いことなのだ。
 そう頭ではわかっているのに、心は納得していなかった。
 未だ混宗婚が忌避される世界で、同じ教派の善き人と巡り逢える。それは幸いなことと教えられた。その言葉に間違いはないだろう。
 それでも、私はーー

「……夢を見てしまうの、もう少女ではいられないというのに。お伽噺のような……そんな素敵な夢を、」

 例えばそう。偶然にも知り合った人と運命の赤い糸で結ばれていたりだとか、……言葉がなくとも通じ合える関係だとか。そうしたものに夢を見る。その翡翠色の瞳に、幻想を描いてしまう。
 私が口にしたのはそれだけだった。明確な言葉は何一つ持ち合わせていなかった。
 それでも彼にはーー彼にだけは伝わった。……伝わってしまったのだ。

『……もう一度訊ねます』

 私の手を取る彼のそれ。しなやかな指先は華奢な造形をしているのに、私よりもずっと力強い。それはまるで、童話の中の王子様みたいに。

『天国に行くことのできる不自由な人間と、例え泡になるとしても自由に海を越えられるのと。どちらを望みますか?』

 かつては答えられなかったその質問。
 けれど、今は。

「泡となったって構いやしないわ、……あなたがこの手を引いてくれるなら」

 今は、真っ直ぐに答えることができた。永遠のいのちを否定することができた。ーー神を裏切ってでも、手に入れたいものができてしまった。
 それは未来。泡沫のような日々。永遠という名の楽園を捨て、私はこの苦難に満ちた現世を選んだ。
 その命の終わりには何が待つのだろう。ただの無か、それとも地獄に堕ちるのか。だとしても、今触れた温もりを手放すことはできそうになかったのだけれど。
 そう微笑む私に、彼もまた口許を緩めた。

「あぁ、よかった」

 そう言って。
 心地のいい低音。なだらかな声音。目を丸くする私に、彼はくすりと笑う。

「呪いが解けたのです。あなたが僕を選んでくれたから」

 彼は歌うように言うと、私の手を取って立ち上がった。
 その足は長いこと動かしていなかったとは思えないほどに軽く。私よりもずっと高いところにある視線に、目眩がしそうだった。

「いったい、どういう……」

 わけがわからないわ。
 急な展開に目が回る。頭が追いつかない。思考は停止し、くるくる踊る彼に、私はただ引っ張られるばかり。

「……僕は、あなたにもう一度会うためにここに来たのですよ」

 そんな私に、彼は秘密を打ち明けるような秘めやかさで囁いた。
 かつて私に助けられたこと。それが忘れられなかったこと。地上に上がるために、足と声を犠牲にしたこと。そうしたことを語る彼に、私は思わず声を洩らす。

「それならそうと言ってくださればよかったのに、」

「それも禁じられていたんです。過去は語らない。その代わりに未来への手助けをしてもらいましたから」

「手助け?」

「ええ、」

 その問いに彼は答えを返さなかった。
 それでも私は気にならなかった。だって今、私は彼と言葉を交わしているのだから。その奇跡を思えば、なんてことはなかった。
 そして同時に私は自分の置かれた現状に思い至る。

「でも私、きっと許されないわ」

 教会を出ること。神の元から立ち去ること。そのいずれも現状認められるとは思えなかった。
 夢から現実へ。思い出せばそれはあまりに難しいことだった。教区を出るにしても信仰はどこまでも追ってくる。相手方が裕福な家柄というのであれば尚更教会が私を逃すとは考えられない。

「大丈夫、あなたは何も心配しないで」

 顔を曇らす私とは対照的に。
 彼は明るく笑い、手を引いた。向かうは聖堂の扉、その先へ。

「それが例え海の底だとしても、あなたは着いてきてくれるのでしょう?」

 最後に。
 確認するかのように彼は私に訊ねる。海の底、神の手の届かない深淵。それは途方もない世界で、私の想像などは及びもしないところだ。
 けれど、私は「ええ」と頷いた。

「平気よ。だって私はきっとそれを夢見ていたんだもの」

「あぁ、……本当によかった」

 彼が笑みを深めるのを見て、私も嬉しくなる。このために生きてきたのだと思えた。
 誰も知らないところへ。
 それは私の望んでいたことでもあった。だからこれは間違いなく私の選択だ。……そのはずなのだ。

「でなければあなたを無理矢理にでも水底に引きずり込まねばならないところでした」

「まぁ、それは怖いわ」

 私たちは笑みを交わしながら歩き出す。明るく照らされた太陽の下へと。その先へ続く未来へと。終わらないお伽噺を夢見て、歩いていくのだった。