これからの未来�U


 第三の島、蓬莱島。
 溢れる木々。途方もない空。のびのびと呼吸する生き物たち。
 仙道がこの緑豊かな土地に根を下ろしてひとつきが経った頃。名前もまた新たな邸で日々を過ごしていた。

「やはり水路を整えるのが一先ずの目標かしら」

 目の前に広げられた地図。ひとつきの時間をかけて記された蓬莱島のそれは、未だ未開の土地と言っても過言ではない。
 仙道にとって住みよい島に。しかしながら自然との共存も同時に考えなければならず。
 名前は頭を悩ませていた。

「西側の澤鹵の地をどうするか……。塩分を流すにしても水路をそれに見合ったものにしないと……」

 呟きは独り言に過ぎず、窓から吹き込む風に流されて消える。……はずだった。

「なんだおぬし、こんないい天気の日に引き籠って……」

 呆れた声が名前の言葉を拾い上げる。
 それは本来この邸にはないものだった。天化のでも天祥のでもなければ、もちろんナタクのそれでもない。まったく別の、けれど懐かしい声だった。

「太公望どの……!」

 大きく開いた窓を背に。真白い陽光を背負い、その人は立っていた。

「おお、久しぶりだのう」

 なんて、気の抜けた笑顔をその顔に浮かべて。
 先の戦いの後、忽然と姿を消したはずの彼が今、名前の前にいた。

「……ええ、本当にお久しぶりです」

 けれど驚きはすぐに去った。
 見開いていた目を細め、名前は微笑む。
 太公望は天下一の策士だ。彼ほどに頭の回る人を名前は他に知らない。そんな彼であったからこそ、信じていた。あんなことで消えるはずがないと。何だかんだと言い訳をして、新たな世界の始まりを見届けずにはいられないだろうと。そう思っていた。
 ……彼に言ったら、「買い被りすぎだ」と呆れられてしまいそうだけれど。

「それで?太公望どのは何をなさっていたのですか?」

 甘やかな薫りの立ち上る茶器を間に挟み。ずばりと訊ねる名前を他所に、彼は出されたばかりの菓子に手を伸ばす。
 「ん、うまいな相変わらず!」にこやかに椿餅を食む姿は少年らしく、名前は「もう、」と笑った。

「そう仰るならずっとここにいらっしゃればいいのに」

 だが彼が受け入れるわけがないだろうことはわかっていた。なんとなく、確証はなかったけれど。
 そしてその予感通り、彼は大仰に首を振ってみせた。

「わしもそうしたいのは山々だがのう……。いやはや、人気者はつらいな」

「本当ですよ、スープーどのなんてもう見るのも辛いくらいで……気丈に振る舞ってはいらっしゃいますけど、」

「……そうか、」

 そこで。
 彼は声を落とした。その声音に先程までの冗談めいたものは含まれていない。気まずげに伏せられた目。そこには彼の抱える躊躇いだとか苦慮だとか……そうしたものが滲んでいた。

「……けれど、ここでは聞かないことにしておきます。また会えた、それだけでわたしは嬉しいのですから」

 だから、名前はそれ以上を聞くことはしなかった。ただ微笑み、自身の想いだけを告げた。
 きっと彼には彼なりの理由がある。名前になど想像もつかないような考えが、きっと。
 だって、彼はーー

「……わしにそんなことを言ってもいいのか?」

 彼は、太公望ではない。名前が最初に出会ったその人ではない。ーーその人だけでは、最早なかった。
 名前も詳しいことは知らない。ただ姿が変わった彼がただの太公望ではなく、その身に王天君の魂を宿しているのだと。本来彼らはひとつの存在であったのだと。それだけは伝え聞いていた。
 ーーだからこんなにも纏う空気が違うのか。
 どこか自虐めいた笑みを見せる彼に、名前はぼんやりと思う。
 太公望は柳のような人だった。清らかな、ただそれだけの人だった。
 けれど今は。今その身には深淵のごとき隔たりがあった。息を吸って、吐いている。そうしているだけでも、なんだか空気がしんしんと冷えていく。強張り。ーーそれは、なんのためだろう。

「ええ。……だってわたしは太公望さんに言っているんですもの」

 考え、至り。それでも、ーーいや、だからこそ名前は笑って応えた。
 他の誰でもない、名前が信じた彼へと。今の名前を形作るきっかけをくれた彼へと。ーー何より信じられる、大切な朋へと。

「もっとわたしたちを……わたしを信じてください。あなたにどんな力があったって、そんなの関係ありません」

 この言葉も気持ちも、出逢った頃となんの変わりもない。
 そう想いを籠めて、名前は手を取る。あの日と同じように、あの日よりも近づいた温もりで。
 笑いかけると、彼は困ったように眉尻を下げた。

「馬に蹴られるのはごめん被りたいのだがなぁ……」

「馬?」

「……天化が見たら怒るであろう」

 そう言われて、あぁ、と名前は頷く。とはいえそれは肯定のためではない。

「天化さんはそのくらいで怒りませんよ」

「疑わしいのう……。あぁいや、それだけの自信があるということか?」

 彼はぶつぶつと呟くと、やがて「まぁいいか」とひとり納得をした。置き去りにされた名前は首を傾げるしかない。
 のらりくらりと躱す彼は、最後に桃を頬張ると。「さて」と立ち上がる。

「もう発たれるのですか?」

「あぁ。あまり長居をしては鼻のいいあやつらに見つかってしまうからな」

 悪い顔で笑う彼は本当に楽しそうだ。追いかけられる、それすらも愉快だと。嬉しいのだと言いたげに。
 笑い、ふと彼は表情を消した。

「次は朝歌に行こうかと思うのだが、……何か言伝てはあるか?」

 朝歌。
 その言葉に、心臓はどくりと脈打つ。郷愁と思慕に。永遠に埋まることのない空白が戦慄いた。

「言伝て、は……」

 去来する記憶。想い。過ぎ去ったいくつもの顔。大切な人たち。
 名前は知らず知らずのうちに剣に手を添えていた。武王から賜った、ただひとつの証へと。
 名前は目を閉じ、そしてまた彼へと視線を返した。

「……少し、待っていてくれますか」

 彼は快く応じてくれた。
 一通の文。この世でたったひとりの主に宛てたもの。それを書き記し、名前は彼へと託す。

「これだけでいいのか?」

「ええ。書き出したら止まりませんし……父はこういうの、泣いてしまいますから」

 言うと、「目に浮かぶな」と彼も笑った。それから、

「これっきりというわけでもなし、また書きためておけばよい」

 と優しく名前の頭を撫でていった。

「……ありがとうございます」

 彼の飛び立っていった蒼穹。それを見上げ、名前は呟く。
 その果てのない青は西岐で見たものと変わりない。きっと今の朝歌とも。
 ーー最果てを吹く風はどこまでも続いているものなのだ。
 そう思えば、この寂しさもなんてことはない気がした。

「おーい!!」

 緑の丘の向こう。朗らかな声が風に乗って流れてくる。
 名前に向けて大きく振られる手。心地のよい音色。目映いほどの笑顔。ーー何よりも大好きな、たったひとりの人。

「ーー天化さんっ!」

 それに応え、名前も駆け出す。その温もりに飛び込むために。
 導のない道を、真っ直ぐに駆けていった。