雪の女王T


 そして私はページを捲った。




 頬を撫でる冷たい指先。ちらちらと舞う真白い影に、私は駆け出した。

「ねぇ雪よ!雪が降ってきたわ!!」

 小さな足で駆けた先、古ぼけた木戸を叩く。と、ガラリと音を立てて扉が開いた。

「雪くらいで何を大袈裟な……」

 現れたのは冷えた瞳。世界にはつまらないことしかないみたいな顔をした少年はやれやれと溜め息を吐く。けれどその言葉とは裏腹に、私を自宅へと招いてくれた。

「あぁこんなに冷たくなって……。今日は天気が悪くなるってラジオでも言ってたのに」

 呆れたって風に彼は私の頬を撫でた。しんしんと冷えきったその肌を。こうすることで温まるのだと言わんばかりに撫で擦り、すきま風の吹く部屋の中で身を寄せ合った。
 少年の家は私のと同じくらいに小さくて、空気は冷たいばかりだった。でも私は自分の家よりよほど彼の家が好きだったから気にならなかった。彼の隣は教会の温かな日溜まりよりずっと心地が良い。それを知っていたから、私は一も二もなく彼の元に飛び込んだのだ。

「だってお母様から命じられてたんだもの。教会の前に積もった落ち葉をしっかり片づけなさいって。すごくすごく寒かったわ。でもね、こうしてあなたに会いに来れたから今日は素敵な日ね」

「自分で来たくせに。素敵も何もないじゃないか」

 わけがわからない。そう言いたげに彼は顔を顰めた。でもその目元が微かに赤いのに気づいてしまったから、私は笑うのをやめなかった。

「それでも素敵なのに変わりはないわ。だって初雪よ?あなたと二人で見る初めてのこと、また思い出が増えたわ」

 私が彼と出逢ったのはそう昔のことではない。そもそも私がこの雪国の小さな町に越してきたのはおよそ一年前のことなのだから。
 始まりは私が彼に声をかけたことから。今日よりもずっと寒い日。降り積もる雪に足をとられながらなんとか歩いていた少年を見かけた。それが彼だった。
 そんなひどく寒い日だというのに、彼はコート一枚しか羽織っていなかった。手袋もマフラーもなく、凍えた体をぎゅっと折り曲げていた。
 そんな姿を見て、なかったことにできる人なんているのだろうか?
 とにかく私は自分のそれを彼に丸ごとあげてしまった。手袋もマフラーも。なんだか用事があるらしい彼とは違い、私はもう家に帰るだけだったから構わないわと思った。
 最初はいらないと突っ返されたのだけれど、強引に押しつけてその時は終わった。しかし彼は律儀だったものだから、翌日には私の家をすっかり探り当てて返しに来てくれた。
 以来、私は彼を気に入り、今ではもう大好きなお友だちになっていた。……彼の方がどうだかは知らないけれど。
 でもたぶん嫌われてはいなかった。この時は、まだ。

「……恥ずかしいやつ」

「ふふっ……、別にいいわ、それでも。だってあなたは私を遠ざけたりはしないもの」

 こうやって笑い合える日が続くのだと、そう信じていたのに。

「どこへ行っちゃったのかしら……」

 それもまた雪の深いある日のことだった。
 ーー彼が忽然と姿を消した。
 私の前からだけではない。この町のどこにも彼の姿はなく、その行方を掴むことができなかった。彼の家族も町の人々も。いずれもが首を横に振ったのだった。
 唯一最後、彼を見ていたのは町の門番だった。門番は彼がそりに乗って町を出ていったのだけを見ていた。そう、彼は外の世界へと飛び出してしまったのだ。私の手の届かない、どこかへと。
 最初、私は彼に嫌われてしまったのだと思った。一ヶ月探し回った後、次の一週間はベッドの中で思い切り泣いて終わった。その後にはそうしているのにも疲れ果て、私はまた町の中を探し回った。
 けれどやっぱりどこにも痕跡はなく、ついには町の外れ、門のところまでやって来てしまった。
 町のすぐ側には澄んだ川が流れていた。
 ーーこれに彼は落ちてしまったのだ。
 町ではすっかり彼が冬の川に溺れて凍えきってしまったのだということになっていた。だから私はその川を見ただけで悲しくなって、ぽろぽろと涙を溢した。
 今、その大きな川は氷も溶け、春の装いを見せている。
 ーーこの川で彼と遊ぶことができたらどんなにか楽しいだろう!

「あぁ、私が雪を楽しんだのがいけなかったのだわ。だから雪の女王様が彼を連れていってしまったのよ」

 私の声はもう涙ですっかり乾ききっていた。でもそれよりずっと心の方がからからに渇いていた。悲しくて悲しくてたまらなくて。
 私は泣きながら川へと問いかけた。

「ねぇ、本当に彼はここに落ちてしまったの?そうしてあなたが彼を連れていってしまったの?だったら教えて、彼は今どこにいるの?」

 川は静かに流れていた。だから私は答えがなくてもそんなにがっかりはしなかったろう。
 でも、不意に。
 水面がふわふわと波立った。風はなく、私以外に人はいないというのに。
 それはまるで私に答えたかのようだった。そうとしか私には思えなかった。思えなかったから、私は川に浮かんでいた一艘の小舟に飛び乗った。

「それじゃあ私の一番大切にしてるものをあげるわ。だからお願い、もう一度彼に会わせて」

 そう言ってから。私は懐から一冊の聖書を取り出した。それは私が初めての誕生日に貰ったもので、両親と私の繋がりでもあった。
 それを私は川へと投げた。思い切り腕を振って、ずっと遠くまで。
 そうすると、その拍子に小舟を繋いでいたものが外れ、岸からゆっくりと滑り出してしまった。

「あぁ、どうしよう……」

 私は慌てて引き返そうとした。けれど私の力では水の流れに逆らうことはできず。どんどん遠ざかる景色に途方に暮れるしかなかった。
 ゆったりと進んでいく舟。川沿いではスズメが飛び、私を励ますように歌っている。その反対側では美しい花畑が広がり、それから放牧される牛や羊の姿を見ることもできた。

「もしかしたらこの川は私のお願いを叶えてくれようとしてるんじゃないかしら」

 次第に私はそう思うようになっていった。それほどに流れていく景色は和やかで、私の心に安寧をもたらしてくれた。
 どこまでも広がる青空と色鮮やかな風景。そうしたものを楽しむようになっていた私であったけれど、じきに舟は波に押され、岸へと乗り上げてしまった。

「ここは……」

 そこには一軒の家が立っていた。辺りを見回してみるけれど、他にはなんにもない。大きな門と、その向こうに聳え立つ大きなお屋敷。
 私は舟の上で呆然とそれを見上げた。何せこんな大きなお屋敷、見たこともない。町の一等偉い人の家ですらこれほど豪奢ではなかった。
 そう尻込みする私の前で、きぃと門扉が開く。

「おや、お嬢さん、こんなところでどうしたのかな」

 出てきたのは大人の男の人だった。私よりも、そして父よりもずっと背の高い人。なのに髪は私の母よりも長く、しかしその人にはよく似合っていた。
 聡明な面立ちをした人は柔和な微笑みを浮かべて、私に手を貸してくれた。

「君のように可愛らしいお嬢さんがどうしてこんな舟に乗っていたのか、私に教えてくれるね?」

 ずいぶん久しぶりに陸地に足をつけることができた私はすっかり安心しきっていた。だから恩人であるこの人にも洗いざらいすべてを話した。友達が町からいなくなったこと。彼を探しに来たこと。何もかもを話してしまった。
 その人は私の話を頷きながら聞いていた。私の視線に合わせるために、わざわざ膝を折って。そうしてすべてを聞き終えた後で、その人は名前を教えてくれた。

「私はまだその彼を見ていないけれど、案じることはないよ。私の方でも探してみるし、君は……そう、疲れているようだからこの家で少し休むと良い」

「ありがとうございます、神宮寺さん……」

「寂雷でいいよ、名前くん」

 優しいその人は春の日差しみたいな微笑で私の頭を撫でた。それは強張っていた私の心を溶かすには十分すぎる温かさで。
 ホッとしたのと嬉しいのとで私はまた泣いてしまったのだった。