子供の時の記憶を掘り起こそうとすると、そこには決まって色がない。
――一面の白。
真っ白な檻から窓の向こうばかりを眺めた日々。小さな名前の小さな世界。その部屋の壁は石で、床はタイルでできていたけれど、そのどちらもが色彩を忘れていた。雪原のような一面の白。そして静寂。そこは死の部屋だった。
幼少期の名前は組織の管理する施設にいた。そこには名前と同じ境遇の子供たちが集められていたけれど、個々の交流は制限され、それぞれが一つの部屋に収容されていた。箱詰めにされた子供たち。俯瞰してみるとずいぶんと気持ちの悪い光景だ。それでもやがて子供たちは成熟し出荷されていく。とはいえ彼らが箱詰めされたままなのは変わらない。だからある程度の自由が許されるようになった今でも、施設に何人の子供がいたのか、正確な人数は知らないでいる。
名前の元を訪れるのは限られた人間だけだった。そのほとんどが研究員で、彼らは白衣に身を包み、感情のない目で名前を見下ろしていた。それを寂しいだとか悲しいだとか感じていたかもよく覚えていない。では彼らに対する怒りだとか憎しみだとかがあるのかといえば別にそういったものも残っていないのだ。彼らは彼らで名前たちとは違う箱に詰められていた。だから仕様のないことだったのだと思う。みんな、自分のことだけで手いっぱいだった。
例外はひとりだけ。名前はその人の足音をすっかり覚えていたから、いつもいつも扉が開かれた瞬間にその胸に飛び込んでいた。名前が7歳か8歳か、そのくらいだったある日もそれは変わらない。
その日は朝から氷雨が窓を打っていた。小さな窓からでも重たく映るどんよりとした空。予定されていた遠泳訓練は中止になったけれど、代わりに入れられた語学の授業で鞭打たれて気分は低空飛行ぎみ。そんな憂鬱な気分を吹き飛ばしたのは通路に響く足音である。それが耳に届いてすぐ、名前の顔はぱっと輝いた。
「ゼロ!」
昔からの名前で呼ぶ名前を、零は危なげなく抱きとめた。なのに「こら、危ないなぁ」なんて笑って、名前を首に巻きつけたままぐるりと回る。名前も名前で彼の注意なんて意に介さず歓声をあげていた。
「元気にしてた?」
名前を下ろすと、零は身を屈めてその顔を覗き込んだ。頬に添えられた両の掌。その平均よりは冷たい温もりが与える安心感。名前はへにゃりと相好を崩す。「元気よ、元気……獲物を追い立ててる時のハウンドよりもずうっと元気だしずうっとご機嫌よ」零の手に自分のそれを重ねて、目を細めた。
彼と会うのは半年ぶりだった。零は名前よりずっと先輩だったから、施設からもアメリカからも離れて遠い遠い島国で暮らしていた。何の目的で、なんて疑問は当時の名前の頭に浮かぶことはない。大人とはそういうもので、名前も良い大人になればそうなるのだと漠然と思い描いていた。
そう、半年ぶりの再会である。名前は改めて零の顔をまじまじと見つめた。日に透かすと金にも見える髪はミルクティの甘やかさで、その下にあるアクアマリンは空にも海にも見える。世界の美しいものを閉じ込めたかのようなところはちっとも変わっていない。でもそれらを縁取る輪郭は記憶よりも丸みがなくなり、背丈も伸びたように思う。そういえば、抱きついた時に触れた胸板も前より硬くなっている気がする。
「ゼロはどんどん先に行っちゃうのね」
それに引き換え名前といえば。そりゃあ身長は伸びたし筋肉もついたけれど、それでも全然零には及ばない。零はとっくに大人なのにもっとずっと大人になっていく。なのに名前は子供のまま。ちっとも大人に近づいている気配がしない。
「何言ってるんだ。ちゃんと成長してるよ」
「うそ」
「嘘じゃないって」
「じゃあ具体的に言ってみて」
「うーん、……身長とか?」
「それ以外で!」
膨らんだ頬をこねくり回そうとする手から逃れ、零をねめつけた。ついでに、語学の先生がそうするように腰に手を当てる。しかしそれは所詮子供の猿真似で、零からしたらちっとも怖くはなかったろう。それでも零は「そうだなぁ」と真面目に考えてくれた。児戯に付き合ってくれるのは彼の優しさ故。当時は無意識のうちにその優しさに甘えていた。彼とて難しい立場にあったろうに。
「じゃあこの半年の間に何があったか教えてくれないか?名前がどんなことしてたか知りたいな」
零がうまいこと逃げただなんて思いつきもしない名前は、喜々として口を動かした。話したいことに口の方が追い付けないほどである。なにせ半年分だ。山積した思いは唇から溢れて止まらない。
名前は語った。スリの訓練で手際の良さを褒められたこと。引き換え尾行の練習の時には対象を見失うばかりか炎天下の中人混みを彷徨う羽目になったこと。最近食事に出される肉が一枚増えたこと。味付けが少し濃くなったこと。ある訓練では闘争心を掻き立てるために何日か食事を抜かれたこと。今日予定されてた遠泳訓練が中止になって嬉しいということ……。
「ゼロのくれた本もちゃんと読んでるよ。……むずかしいからまだ半分までしか進んでないけど」
「十分だよ」
名前を膝の間に座らせて、零はシーツの波間に揺蕩う一冊の本を手に取った。ぱらぱらぱら……紙が流れる。
「寝る前にひとつ読むようにしてるの。そうするとね、いろんな夢が見られるんだよ。サーカスの夢、北の海の夢、わたしの骨を見る夢――見たことなんてないのに、ふしぎ」
名前は零のおなかに頭を預けて笑った。そうすると今度は本の方が黙りこくる。ぱたり。閉じたのを最後にまた眠りに就く。「ゼロ?」名前は零を見上げた。すぐそこにあるはずなのに、不思議とその表情は見えなかった。照明がうまく当たっていないからかもしれない。それは光の弱さのせいなのか、陰が濃いせいなのか。
「……いつか、見よう」
零がそう言ったのだけはわかった。でも名前にはどう答えるのが最善なのかてんでわからなかった。だから名前は別のことを口にした。
「わたしの魂もかえってこられるかな」
「自分の骨を見に?」
「うん」
「物好きだなあ」
零は「俺は自分の骨なんて見たくないけど」と言った。零にとったら身体なんてものは現世の借り物でしかないのだろうか。けれど名前はけがらわしさを肩代わりしてくれた肉体を愛おしいと思う。名前の魂はゆくべき場所へ向かえるが身体の方はそうではない。朽ちて土に還れるならまだしも、行方知れずとなるものも多い。名前としてはせめてお礼だけでも言いたかった。
「そうだ、今日は新しい本持ってきたよ」
一区切りつくと零は鞄から一冊の本を取り出した。「今回も検閲を通るのには苦労させられたよ。だから研究者にでもなるといいと言っておいた。あの探求心は他に使うべき場所があるだろうからね……」名前は受け取るとしげしげと表紙を眺めた。角が曲がり、カバーの先端が折れている。様子から見るに、これも零が読み終えた本だろう。しかし作者の名前が読めない。首を傾げると、「さいせい、そう読むんだ」すかさず零が答えてくれた。
「今度のも詩集にしてみたから、また寝る時の供にするといい」
「うん、ありがとう」
貰ったばかりの本をめくってみる。踊る文字は今読んでいるものと同じで、名前の眉間に皺が寄る。これまた読むのに苦心しそうな代物だ。
名前は適当なページで手を止めると、そのまま零に差し出した。名前が何も言わずとも、承知したとばかりに彼は本に目を落とした。名前はまた彼のお腹に寄りかかり、今度は目を閉じた。
名前は零の声が好きだった。彼の声は春の木漏れ日だ。彼は名前を空にも草原にも連れ出してくれる。ここでは名前は自由だった。
「『毛糸にて編める靴下をも――』」零の声が輪郭を持ち始める。灰色の家屋。(しろいへや)所在なげに佇む一人の男。(おりたたんだりょうあしにかおをうずめるこども)彼の目はぼんやりとしている。(かのじょのめはぼんやりとしている)と思えば顔をぐしゃぐしゃにして泣き崩れた。その男の(おんなの)顔は、そうだ、これは――
胸が音を立ててきしんだ。名前は男を知っている。いや、そうではない。そうではなく――
彼は、名前なのだ。
「ゼロ、ゼロ、」名前の頬は涙で濡れそぼっていた。零はやはりすべて承知しているといった様子で名前の背中をさする。「大丈夫、大丈夫だから……」何が大丈夫だというのだろう。名前には零の言いたいこともいなくなった彼の行方もこの感情の行き場もわからない。だから溺れるまいと零にすがるしかなかった。それも罪に思えたけれど、それでもそうするしかなかった。(そうするしかなかったのだ、)
零の腕の中、名前は彼に思いを馳せる。名前の代では一番年嵩だったひと。彼は頭がよかったしみなに親切だった。名前も語学の授業ではいつも助けられた。そして迎えた運命の日。遠泳訓練中、突然天候が悪くなった。もしかするとそれも織り込み済みだったのかもしれないが、名前たちには知る由もなかった。とにかく吹き荒ぶ風と雨の中、名前たちは泳いだ。泳いで、泳いで、そうするうち、一人が流された。彼だった。名前は手を伸ばした。一番近くにいたのが名前だったのだ。雨と雨の間、ぼやける視界の向こうに必死で手を伸ばした。彼も名前に手を向けた……と思う。しかし瞬きのうちに彼は波に呑まれていた。その後の記憶は断片的にしか残っていない。ひどい状態だったので薬を打たれた、と次に目覚めた時に聞かされた。だが名前の思考は別のところにあった。ぼうっとする頭でどうして彼が、と考えた。その答えはすぐに思い出せた。彼は、怪我をしていた。誰それを庇って怪我をしたのだ、と恥ずかしそうにしていた。それが原因。わかったところで、どうしようもなかった。結局彼は帰ってこなかった。一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、誰の口にものぼらなくなった。彼は死んでしまった。名前は遠泳訓練が嫌いになった。それで、おしまい。
「でもそれじゃああまりにさびしすぎるでしょう……?」
「……そうだね」
「それじゃあ、」零はつとめて明るく言った。
「俺が代わりに弔おう。名前のきょうだいたちのために」
名前はそろそろと顔を上げた。「いいの?」代わりなんて、ゼロも、きょうだいたちも、いいの?二つの意味を込めて訊ねた。
「しかたないさ」零は名前の頭を撫でた。「外に出られる俺くらいしかしてやれないんだから」
「花を買うよ。鮮やかなのを、たくさん。それを海に流そう」
零は微笑んだ。名前はその瞳の奥に青空をみた。抜けるような青空を。
その時名前は自分の存在理由を諒解した。
――この人のために命を使おう。
頷き返しながら、ようやく自分という個が形作られていくのを名前は感じていた。