元武官、公主との茶会に興じる


 竜吉公主という人は。
 華よりもたおやかで、露よりも儚げなーー例えるならそう、彼女こそが崑崙の月であった。少なくとも名前はそう思っていたし、だからこそその御前に出るのすら烏滸がましいと、自ずから身を引いていた。

「うむ。やはりおぬしの合わせた香は面白い薫りをしておるな。どこか遠くの……異郷の薫りじゃ」

 ーーそれが今や、こうして面前で茶を酌み交わす仲になろうとは。
 新たな仙人界、蓬莱島。かつての人間界からは遠く離れたこの星の片隅、一等空気の清浄な地に竜吉公主の邸はあった。
 四方を水に囲まれた邸。公主の体にとって最も適した環境。それは彼女の異母弟がこの星の隅々まで探索した末に見つけ出した場所だった。
 だから人間界にいた頃よりも、そして崑崙山2で移動していた時よりもずっと彼女の顔色は良くなっている。
 それが名前も嬉しくて、つい彼女のためになるならと行動してしまう。今回公主に乞われ、香を調合してきたのもそのためだ。
 名前は微笑みながら、香炉の前に広げていた小壺を片付けていく。
 何種もの砂香が納められた小壺。これらを配合することで公主の望んだ薫りは作り上げられていた。
 それは彼女が言い当てたように、遠い異郷で生まれた薫りだ。乾いた砂と草、それからほんの少し漂うオアシスの甘やかな匂い。
 砂漠の薫りは公主の瑞々しい顏には似合わない。けれど彼女は楽しげな雰囲気で香炉から立ち上る煙を眺めていた。

「西域の者から教わった配合ですから。ですがまさか公主さまのお眼鏡に叶うとは思いませんでした」

「ふふ……、私は崑崙しか知らぬからな」

 焦がれてしまうのだろう、と公主は言う。寂しげな様子などなく。ーーそんなことすら忘れたという風に。
 その霧雨のような微笑に、しかし却って名前の胸は痛んだ。この美しい人を守りたいと。そう本能的に思ってしまった。
 だから名前は、「公主さま」と勢い込んで言葉を紡いだ。

「この程度のこと、わたしならばいくらでもご用意致しますわ」

「そうか、……おぬしは心優しいのじゃな」

 細められた双眸には慈愛の色が溢れていた。まるで愛し子を見るかのような。そんな具合で、彼女は名前を見つめるのだった。
 その微笑みはあまりに眩く、名前には毒なほどで。思わず頬を染め、口を噤んでしまった。
 けれど次に公主が言ったことにはーー聞き返さずにはいられなかった。

「今なんと?」

「だから、異母弟もおぬしを目にかけているのじゃろう、と」

 それも納得だ、と公主は少女のように笑う。異母弟を想い、そして名前を見つめながら。
 だが名前には覚えがない。公主にそんな言葉を掛けられるのも、温かな眼差しを向けられるのも。まったく理解の範疇になくーーはて、彼女の言う異母弟とは燃燈道人以外にもいたのだったかと考えずにはいられないほどであった。

「ええっとそれは燃燈さまのことですよね?」

「それ以外にいるか?」

「いえいないでしょうけど……」

 しかし、と名前の思考は食い下がる。
 しかし、心当たりがない。燃燈道人。竜吉公主の異母弟。先の戦いではその才を存分に発揮し、他の仙道を圧倒してみせた人。現在では楊ゼンの元、人間代表として日々を忙しく過ごしている仙人。そんな彼と名前の縁といえば決して濃いとは言いがたく。

「確かに燃燈さまには一度だけ稽古をつけていただきましたけど……」

 それはまだ記憶に新しいある日のこと。
 ひとり鍛練に励んでいた名前の元を偶然燃燈道人が通りかかった。ただそれだけの縁だったのだけれど、何を思ったのか。燃燈道人はその日一日名前に付き合ってくれた。
 『ひとりで至れる場所などたかが知れている』そう言って名前をこてんぱんに叩きのめした後で、彼はいくつかの助言を残していってくれた。
 だから名前は燃燈道人に感謝をしている。しかしそれは一度きりのこと。気紛れか、あるいは見かねてか。もしくは分かりにくいだけで彼は世話焼きな質なのかもしれないーーそんな風に名前は思っていたのだけれど。

「いいや?確かに異母弟は優しいが……その手の情けとは無縁であろう」

 何が面白いのか。竜吉公主はくつくつと肩を震わせた。

「見込みがあると思われたのじゃろう。あるいは育てたいと思わせたか。どちらにしても私としては喜ばしいが」

「そう……なのかしら」

「私が言うのだ。そうに決まっておろう」

 戸惑う名前に、公主は次々と菓子を差し出してくる。

「それよりほれ、茶が進んでおらんではないか」

「あ、ありがとうございます……」

 それはもう子供をーーというより孫を可愛がるそれに似ていた。もちろん公主の容貌は見頃の華といった具合であったけれど、接し方がどうにも祖父母を彷彿とさせた。

「これからも異母弟と仲良くしてやってくれ」

 だからか。
 そう頼まれ、深く考える間もなく頷いてしまったのは。
 けれど頷いてから、それも変な話だわと名前は慌てた。
 今後燃燈道人に指導を仰ぐというのなら、頭を下げるのは名前の方だ。それが道理というもので、公主がそうする必要などない。
 けれど公主は笑うばかり。

「うむ、おぬしならば異母弟とも上手くやっていけるであろう」

 彼女の中では最早決定事項となったらしい。
 とはいえ燃燈道人が内心どう思っているのか。
 かのような強いお人に師事できるのであれば無論喜ばしいのだけれど……。
 しかし名前にはどう考えても彼が引き受けてくれるとは思えなかった。それは彼の性質的な理由からでもあったし、その立場故の忙しさからでもあった。
 燃燈道人の手を煩わせるわけにはいかない。かといって竜吉公主の顔を曇らせるのも本意ではない。
 そう頭を悩ませる名前を他所に、公主は微笑みを湛えたまま茶器を傾けた。自身の知らない、異郷の薫りに身を委ねながら。