元武官、急所を突かれる


 翌日、蝉玉から連絡を受けた名前は楊ゼンの元へと赴いた。
 とはいっても用件はいつもの仕事に関するものではない。

「お忙しいところすみません……」

「いや、大丈夫」

 気にしないで、と楊ゼンは微笑む。だがそうしながらも右手は忙しなく動いていた。
 蓬莱島の情報。そのすべてが集約されている宝貝を操作し、浮かび上がる画面に視線を走らせる。そうしてから楊ゼンは「うん」と頷いた。

「二週間後のその日なら問題ないよ」

「ありがとうございます、急なことなのに」

 名前が楊ゼンに頼んだのは蝉玉の結婚式に纏わることーー式場の手配をお願いしたのだった。
 現在の仙人界、蓬莱島の統治は新たな教主となった楊ゼンの元行われている。だから行事を執り行うのも、それに伴うあらゆることも楊ゼンの許可が必要だった。
 とはいえ今の仕組みに落ち着いたのはつい最近のこと。この島についても未だ判明していない部分があり、楊ゼンはいつだって忙しくしていた。
 ーーそんな彼に時間を割いてもらうなんて。
 許可を貰うだけでも申し訳ないと名前は恐縮したのだけれど、楊ゼンは柔和に微笑む。

「そんなに頭を下げないで。僕だって友だちの頼みくらい叶えてあげたいんだから」

「楊ゼンさん……」

 それだけで名前の涙腺は熱くなる。彼が友と呼んでくれるーー出会ったばかりの頃なら考えられなかったことだ。
 だからそんな彼の思いを裏切ってはならない。そう、名前は気を引き締めたのだけれど。

「それより君こそ大丈夫なのかい?あちこち駆けずり回ってるみたいだけど」

 逆に。楊ゼンはほんの少し眉をひそめて名前を窺い見た。憂いに沈む宝石のような瞳。それは他でもない、名前を案じるもので。

「……楊ゼンさんにそう言われるのは二度目かしら」

 なんだかおかしくて、名前の表情は自然と緩む。
 かつても同じような言葉をかけられた。無理をしてはいけないと。暗に訴えられたのは、まだ彼と出会って間もない頃だったように思う。
 それが一度目のこと。
 そして二度目の今は、その時よりも明確な言葉となって名前に投げかけられた。その時よりもずっと近い距離で、色鮮やかに。
 そう言うと、楊ゼンは「そうだったかな」とはぐらかすように答えた。

「何せ君は危なっかしいからね。何度も苦言を呈しているような気もするな」

「うっ……、それは……耳が痛いです」

 墓穴を掘った。
 顔を顰める名前に、楊ゼンは笑う。
 「冗談だよ」その目は揶揄いに満ちていたけれど、同時に真剣さもまた持ち合わせていた。
 冗談というのは半分だけ。もう半分は確かに名前の体を気にかけていた。
 それが名前にも伝わったからーー「ごめんなさい、楊ゼンさん」と素直に眉を下げた。

「たくさん迷惑をかけた自覚はあります。だから何を言っても嘘のように聞こえるでしょうけど……でも、今回は本当に大丈夫ですから」

「名前くん……」

 楊ゼンは。
 驚いたといった風に目を見開いた。
 そして、その後すぐに。

「……信じるよ。他でもない、君の言葉だから」

 彼は柔らかな声音で言った。
 弧を描く目。微笑を湛えた唇。親愛をありありと顔に浮かべて、楊ゼンは名前を見ていた。
 ーーただ、それだけ。
 それだけなのに、名前の胸は熱いもので一杯になる。温かで、止めどない何かが溢れ出す。
 心から喉元へ。

「あぁ……わたし、本当に幸せ者だわ」

 そして、唇へと。
 想いは何ものにも遮られず、ただ真っ直ぐに言葉となった。飾り気も何もない。取り繕うことなど忘れたという声。
 溜め息のような呟きに、「大袈裟だな」と楊ゼンは笑う。おかしそうに相好を崩して。
 けれど名前はいたって真面目だった。本当に、心からそう思っていた。

「だって楊ゼンさんに気にかけていただいて、それから天化さんには我が儘を聞いてもらったわ。蝉玉さんには頼ってもらえるし、蘭英ねぇ、……蘭英さんには手助けをしてもらって。これ以上ないってくらい、わたしは恵まれてるわ」

 これを幸せと呼ばずして、何をそう定義するのだろう。
 少なくとも名前は今が幸福であると思っていたし、疑いなどしなかった。恵まれた環境にいるのだと、そのすべてに感謝していた。
 そう言うと、楊ゼンは目を細める。

「変わったね、君も」

「そう……でしょうか?」

「だって以前だったら考えもしなかったろう?」

 鋭い指摘。語調は柔らかであったけれど、それは名前に突き刺さった。
 心当たりはある。指折り数えてみれば、片手では足りないほど。

「重ね重ね申し訳ないです……」

 名前は頬を赤らめた。
 しかも改善されたのは名前自身の力によるものではない。だから羞恥を滲ませながら、けれどこれだけは言っておかなければと言葉を続けた。

「でも今回のことは天化さんのお陰なんです。彼が頼ってほしいと言ってくれたから……」

「あぁ、なるほど」

 得心がいったと。そういった風に楊ゼンは頷いた。頷いて、そうした後で「そういう関係もいいものだね」と独り言のように呟いた。
 ーーどういう関係を言っているのだろうか。
 名前は目を瞬かせたけれど、楊ゼンが答えをくれることはなかった。彼が向けるのは温かな微笑。微笑ましいとでもいうような笑みを浮かべ、彼は名前に向き直る。

「それじゃあ天化くんには感謝しないと。これでもう君が睡眠不足に侵される心配はなくなったのだから」

「……その言い方、なんだか圧を感じるような、」

「ははっ、その通りだよ」

 笑っているのに笑っていない。
 そろりと訊ねた名前に、楊ゼンがくれたのは口許だけの笑顔だった。
 つまるところ、その聡明な目だけは緩むことなく名前を見ていて。

「……はい、肝に命じます」

 居住まいを正し、首肯するしか名前に道はなかった。