元武官と春告げの雨1
燭火の元、繕い物をしていた名前はふと顔を上げ、窓の向こうに目を馳せた。
「今晩は雨になりそうね」
「雨?」
その隣、武器の手入れをしていた天化は怪訝そうな声を上げ立ち上がる。名前の視線の先、開いてみても窓の向こうに広がるのは宵闇ばかり。耳を澄ませても雨音はちらりとも聞こえなかった。だから首を傾げ、「どうして?」と訊ねた。どうしてそう思ったのか、と。
問われ、名前は曖昧に笑んだ。
「匂いがしたから……。雨が降り出す前独特の水の匂いが」
雨の降り出す予兆といえば古今東西様々なものがある。例えばツバメが低く飛んだりカエルがかしましく鳴いたりだとか。
けれど名前が最も信じるものといえば、それは己の嗅覚だった。雨の前、色濃く滲み出す水の匂い。空気に触れるだけでその予兆は感じ取ることができた。それは自然と共に生きる民ならではの直感だった。
「へぇ?」
名前の答えに、天化は片眉を上げた。それは愉快がるような、それでいて感心するような仕草だった。
「でも、ただの予感ですから。……外れても言いっこなしですよ」
途端。なんだか気恥ずかしさが込み上げて名前は思わず保険をかけた。例えその直感が外れていたとしても何も言ってくれるな、と。幼子のように口を尖らせ、傍らに座る人を窺い見ていた。
そうされた天化はといえば。「どうしようかな」と揶揄いに満ちた声を踊らせた。
そんな風に言われると意地悪をしたくなる。悪戯な目がチカチカと瞬いているのを見てとって、名前は頬を膨らませた。
「そんな意地悪を仰る方、わたしは知りませんからね。今度上着に穴を開けたって本当に本当に知りませんから」
言ってから。有言実行とばかりに名前は布地に走らせていた針を手放した。それから大事に抱えていた布地ーー彼の上着の方も。
パトロールと称してヤンチャをしてきた彼が破いた上衣。それはまだ半分以上も直っていなかったのだけれど、もう知らない。わたしの管轄外だわ、と拗ねる名前に慌てたのは天化だ。
「悪い、揶揄ったのは謝るさ。けどな名前、ああいう顔はよくないさ。苛めてくれって言ってるようなもんだ」
「まぁ、人のせいになさるの?あなたって悪い人ね」
縋るように両の手で名前のそれを包み込んだ彼。その柔らかな拘束を振りほどき、名前は詰るように彼の胸元を人差し指でトンと突いた。
睨めつける双眸。けれどそれは決して本心からではなく。
「……っ、」
「……ふふっ、」
笑い出したのはどちらが先か。
顔を突き合わせ見つめ合っていたはずの二対の目。それはあっという間にくしゃりと歪む。堪えきれない。そういった風で二人は相好を崩し、肩を震わせた。
「酷いのは名前の方さ。冗談でもあんなこと言うなんて」
今度は天化の方が拗ねたような口振りで。けれどそれとは裏腹にその手は名前の体を抱き寄せる。優しく、しかし逃がす余地などないほどに距離を詰めて。
そうしてから彼は名前の肩口に顔を埋めた。「心臓に悪い」……なんて、溜め息混じりの声が名前の膚を掠める。
擽ったさに、「心臓に悪いのはあなたの方じゃないの」と名前は身を捩ったのだけれど。そうしても拘束が緩まる気配はなく。
名前はそっとその背に手を回した。
「ごめんなさい、でもだって、……ねぇ、わたしって信用ないですか?」
「まさか!……でもそれとこれとは違うさ」
パッと音がしそうなくらいの勢いで顔を上げる。しかしその表情はすぐに悲しげなものに作り替えられて。
「少しも嫌われたくないんだ。名前には、ぜんぶ、」
ーー好きでいてほしい、と。
希う姿に、名前の胸はキューっと締め付けられた。それはもう本能に近いところで。それくらい奥深くに根づいた感覚だった。名前ではどうすることもできない、ごく当たり前の想いだった。
ーーそれなのに、彼にはまだ伝わっていない。
一片でも。伝えたいと思っているのに。言葉にすることを躊躇わずにきたのに。それでもなお、この想いは伝えきれていないのだ。
そう理解した瞬間に。
「……っ、わたしも!」
名前の体はひとりでに動いていた。今度は名前が天化の手を取り、その膚の触れ合いからも想いが伝わるようにと。祈りながら名前は天化の驚いたような目を見つめた。じっと、真っ直ぐに。
「わたしも、同じです。あなたに嫌われたくない。格好つけていたいんです。だから、だから……っ、」
言いながら。言っているうちに想いが溢れて頭が真っ白になっていく。
「……あぁ、わかってる」
そんな名前を受け止めるのも、宥めるのも、やはり彼の役目だった。
握り返される手。和らぐ目許。愛おしげに細められる瞳。
引き寄せられ、距離が詰められる。額と額が重なり合い、鼻先が触れ合い、「でも、」と囁く吐息だけで唇が触れたような錯覚すら覚える。
そんな距離で、彼は。
「やっぱり名前の色んな顔が見たいから……」
許してほしいと。
ーー乞うる眼差しのなんと卑怯なことか!
嫌われたくないと言った側から、それでも彼はその先の予告をした。その先、これからもきっと名前を揶揄うのはやめられないだろうと。表情の変化、そのすべてを見たいのだと。
言う内容は意地の悪いものであるのに、しかし名前の唇は拒絶の語を紡げなかった。
「……っ、」何事か。言いかけ、でも音にはならず。最初名前は唇を震わすことしかできなかった。天化の濡れたような瞳に射抜かれた名前には。
「……それこそ意地悪だわ。わたしに拒否権はないんだもの」
抵抗する術も、そうしたいという思いも生まれず。けれど素直に受け入れるのも面白くなかったので、名前は口を曲げて不満げな表情を浮かべるのだった。
しかしその顔を見て天化は笑う。ひどく優しく、なのに熱を帯びた眼差しで。
「名前がどーしても嫌ってんなら俺っちだって我慢するさ」
「それがもう既にズルいと言ってるんです!」
名前は抗議をした。柳眉を逆立て、膨れっ面で。でも決して距離を取ることはなく、むしろ詰めて、先刻の彼のように今度は名前がその首筋に顔を埋めた。そうでもしないとどうしようもないくらいに愛おしかったし、怒っている風なのに顔が緩んでしまうのも隠せなかったのだ。
しかしそれすら彼には見抜かれているらしく。
「……それもお互い様さ」
噛み締めるように天化は言うと、ぎゅっと名前を抱き締めるのだった。