春の憧れU


 早朝の駅のホームは、世界中の人が一所に集められたのではというくらいに混雑している。個が封殺された世界。誰も彼もが他者のことなど眼中にないといった風で。独歩もまた憂鬱に目を曇らせる人々のうちの一人でしかなかった。
 けれど不意に袖が引かれ、我に返る。

「おはようございます、観音坂さん」

 覗き込む大きな眼。眩しいほど澄んだ双眸。黎明の空のような瞳は親愛を滲ませて独歩を見上げている。ーーそれだけで、独歩の心に温かな日差しをもたらしてくれる。

「あぁ、おはよう……」

 けれど気の利いた言葉など独歩には思いつかず。
 つまらない、愛想が悪い。そう思われるのではと内心はらはらして様子を窺っている。が、少女はーー名前は気にした素振りひとつ見せず、柔らかに笑んだ。

「だいぶ涼しくなってきましたね。これで少しはよく眠れるようになるといいのですけど」

「あ、あぁ、そうだな……」

「もう、他人事みたいに。観音坂さんのことを言っているんですよ?」

 名前は少し怒ったように柳眉を逆立てた。しかしそれが己を案じる気持ちから生じたものであるとさすがの独歩にも認められたからーー温かなものが胸に満ちる。
 彼女は案じてくれているのだ。自分のことで精一杯のはずなのに、出会ったばかりの独歩のことを気にかけてくれている。たった一度、助けられたからというだけで。

「……ありがとう」

「え?」

 思わず。洩らした言葉はホームに入ってくる列車の音にかき消された。
 何か言ったか。そう聞きたげに小首を傾げる少女へ穏やかに首を振る。なんでもないのだ。ただ、言いたくなっただけで。

「……そうやって誤魔化されると余計気になるのですけど、」

「いや、本当になんでもないから……」

 合点がいかない。そういった眼差しで探られるが、独歩は曖昧に笑んで、少女に列車へ乗るよう促した。二人ともこれが目的の電車だったのだ。
 流れる人混み。濁流のような重さに、独歩はそっと少女の背に回る。いつものように、さりげなく。少女の華奢な体躯が流れに呑まれてしまわぬよう壁となった。

「……ありがとうございます」

「……いや、」

 気づかれないように動いていたつもりだった。
 けれど目敏い彼女にはお見通しらしい。今日もやはり見抜かれ、申し訳ないといった感じで礼を言われる。
 だが独歩にはそうされる理由がない。少なくとも独歩はそう思っていた。結果的にこの行動が彼女にとっても良い方向に変わっただけで、元はといえば独歩の自己満足でしかなかった。
 ただ独歩には我慢ならなかったのだ。少女の目が曇るのも。その気配が世俗のものに塗り替えられるのも。
 自分でもおかしいと思うくらいに、独歩は名前のことを神聖なもののように感じていた。それこそ聖母マリアもかくやといった具合に。

「そう言うお前こそちゃんと眠れてるのか?」

 揺れる列車の中。名前を壁と自分の体で守りながら独歩は密やかに訊ねる。大丈夫なのか、と。
 独歩も詳しいことは知らない。が、彼女が自分と同じで眠りの浅い質であること。そしてそれが精神的なものに由来していることだけは聞いていたし、察してもいた。
 そんな独歩の問いに。

「ええ、まぁ……」

 名前は困ったように微笑んだ。図星を突かれたといった風に。微笑み、しかし交わしきれないと知るや、諦めたように息をついた。

「でも以前より悪くないのは本当ですよ?」

「そうなのか……?」

「ええ。……やっぱりこうして観音坂さんとお話しできているからかしら」

 最後は独り言のように。名前は呟いたのだけれど、その声はしっかりと独歩の耳にまで届いていた。
 ーー観音坂さんとお話しできているからかしら。
 ……自惚れでなければ。それは独歩のお陰だと、独歩がいることに意味があるのだとーーその存在を必要としているのだと、彼女は言っているのだろうか。

「……っ、」

 ーーそれは、ひどく甘美な痛みだった。
 締めつけられる心臓。喉元までせり上がる感情。波は引いては打ち寄せてきた。ここが車内でなかったら。他に人がいなかったら。……恐らく独歩は思い切り感情を露にしていたろう。
 けれど現実は違う。だから独歩は口元を手で覆い、にやける唇を押し隠した。
 求められること。肯定されること。他でもない、独歩が必要なのだと。頼られるのは悪くない気分だった。
 それはたぶん独歩も同じであったからだろう。彼女の存在に救われている。出会ったばかりなのに、もうずっと長いこと共にいた気がする。そう錯覚するほど、日に日にその存在は独歩の中で大きくなっていった。

「……あ、」

 しかし束の間の安息が永遠に続くはずもなく。
 次が降車駅だという段になって、名前は小さく声を洩らした。残念がるような響きで。
 けれどそれは独歩も同じであったから指摘することはなかった。

「また今夜、メッセージを送ってもいいですか?」

「あぁ、でも多分今夜も帰りは遅くなるから……」

 電話は出られないだろうけど、メッセージを受け取るくらいならいつでもできる。だから気を遣うことはない。
 だがそう言い終わるより早く、名前に大丈夫だと首を振られる。

「平気です。どのみち夜半にならなきゃ眠れないから」

 それはあまり喜ばしいことではないのだけれど。
 なのに名前はそっと微笑む。独歩の帰宅を待つのすら何てことはないと。独歩と話せるのなら眠れないのも気にならないと。そう言わんばかりに微笑んだ。

「わかった。じゃあ……」

「ええ、また夜に……」

 いつもと同じ別れの言葉。それを交わし、名前は列車を降りていく。
 少女の去っていった後。彼女のいた空間はすぐさま別の人間で埋められ、痕跡すら残らない。だが独歩には少女の温もりや感覚が残されていた。記憶や肌に。色鮮やかに漂う残滓に、独歩はほんの少し表情を緩めた。

「今日も頑張らないとな……」

 窓ガラスに映る男の顔。それは世界中の不幸を背負い込んだみたいな、具合の悪いものであった。そういったところは相も変わらず、目の下に刻まれた隈も消えはしない。
 だが心持ちだけは違っていた。出社するのは悪夢でしかないが、それでも目覚めは必ずやって来る。悪夢だろうといつかは覚めるものなのだ。
 そしてその後には心穏やかな時間があることを独歩は知っていたからーー顔を引き締め、戦場へと向かっていった。