元武官、刺繍に勤しむ


 布地に糸をくぐらす。一針一針丁寧に。心を込めて。

「なに作ってるんさ?」

「わっ、」

 没頭していた名前は気づかなかった。声をかけられるまで、天化がその背を気にかけていたことに。背後から顔を覗き込まれて、ようやく彼がすぐ傍にいることを知覚したのだった。

「あぁ、びっくりした」

「悪い、怪我してねぇか?」

「ええ、それは大丈夫……」

 驚いたのは天化も同じで。名前がそれほどまでに集中していたとは知らなかったから、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 それから視線をさっと走らす。名前の指先。針を手放したそれに傷がないこと、柔らかなままであることを、触れることで確かめる。
 過保護なまでの気遣い。することはあってもされることは滅多になかった名前は、むず痒さを覚えながらもはにかんだ。
 気恥ずかしい。けれど、同時に嬉しくもある。想われているのだと実感することは。

「これは蝉玉さんにあげようと思って。わたしもよくはわからないのですけど、女人はこういうものを頭から被るんですって」

「へえ?」

 燭火の頼りない灯り。それに照らされた机の上にはいくつかの紙が広げられていた。
 興味を惹かれた。そんな風に片眉を上げた天化は、名前を後ろから覗き込むのを止め、その隣に腰を下ろす。そうしてから、机上の紙をぱらぱらと捲った。

「なんだこれ、何が書いてあるか全然わかんねーさ……」

「あぁ、それは蝉玉さんが……」

 文字と絵。書いたり消したりしたものが乱雑に散らばる紙面は目に痛い。
 それをためつすがめつ眺めた天化が結局諦めてしまったのも無理はない。何せその図案は蝉玉が悩みに悩んだ過程で生まれたものなのだから。
 つまりは試し書き、ひたすら案を出し続けただけのもので。
 決定稿はこちらだと名前が差し出したものは、打って変わってすっきりと纏まったものになっている。
 しかしそれでも天化には通じないらしい。

「なんだこれ?服か?にしては見たことねーやつさ」

「ええ。結婚式で蝉玉さんが着る礼服なのだそうですよ」

 とはいえ天化の反応は名前にも覚えがある。初めて蝉玉にそれを教えられた時、世の中にはこんな装束もあるのかと驚いたものだ。
 そう名前が説明すると、ようやく天化も納得した。

「ま、なんでもいいさ。俺っちにとって重要なのは、名前がまた仕事を増やしたってことだけだからな」

 ーーこの図案を形にするのにも手を貸したんだろ?
 そう断言され、名前は口ごもった。……図星である。
 彼の言う通り、ああでもないこうでもないと悩む蝉玉に付き合い、最終的な形に纏めていくのに尽力した。それは他でもない名前で。こうして衣装作りにまで手を貸しているのもまた、名前であったのだから。

「何故それが……」

「そんなの簡単さ。俺っちはようく知ってるからな、名前の筆跡なんてのは」

「そう、でした」

 ずっと前、彼と文を交わしたことがある。だから名前も彼の手には覚えがあるし、反対のことが言えるのも当然のことだった。
 だから名前は気まずげに目を逸らす。けれど「こら、」と両頬を包まれ引き戻されてはーー抵抗などできるはずもなく。

「言いたいこと、わかってるだろ?」

「それは……はい、」

 彼が。天化が気遣ってくれている。この身を案じて、無理をするなと言ってくれている。その気持ちは、名前にだって伝わっていた。
 けれど、「でも、」と反論が口をついて出る。意識しなくとも、反射的に。
 ーーでも、だって、私は。

「……蝉玉さんの夢なんだもの、叶えてあげたいわ」

 私は、蝉玉さんの親友なんだから。その夢が危機に瀕したときにさえ忘れられないほど大切なものだと知っているから。だから、どうしても叶えたかった。彼女の友として、一番近くで。

「ごめんなさい、あなたが心配してくれてるのはわかっているのに……」

「名前……、」

 すべては名前の我が儘だ。何もかもに手を伸ばし、諦めきれず。楊ゼンの元で働くのも、燃燈道人の元で学ぶのも、天化たちとの生活を守っていきたいのも。全部全部、名前の我が儘だった。

「…………、」

 ……呆れられただろうか。
 恐る恐る様子を窺う名前に。

「……ったく」

 ふ、と天化は息をつく。震える空気。揺れる心。それらをすべて包み込んでーー彼は微笑んだ。仕方がないな、そう言いたげに。

「別に怒ってるわけじゃないさ、ただもう少し……頼ってほしかっただけで」

「え……?」

 思いもがけぬ言葉。に、名前は目をぱちりと瞬かせる。そんな名前の目の前で。肩が触れるほど近くにいるのに、天化は照れ臭そうに頭を掻いた。

「そりゃ俺っちにはこんな器用な真似はできねぇさ。けど他のことなら……楊ゼンさんの雑用とか、そういうんなら俺っちにだってできる……はずさ」

 こんな、と天化が指し示す先。先刻まで名前の意識を奪っていた羅布には細かな刺繍が施されていた。龍と鳳。幸いを齎すといわれるそれを、名前は布地に縫い止めた。平和な日々が永久に続きますように、と。繊細な手つきで。
 それは名前が針仕事に慣れているというだけで、天化が不馴れだと言うのはごく自然なものだ。なのに彼は残念そうに、恥ずかしささえ滲ませて言葉を紡いだ。

「天化さん……」

 その様子に胸を締めつけられる。愛おしくて、たまらなくて。

「……お願いしてもいいですか?私の我が儘に付き合ってもらっても、」

「構わねぇさ。だってそれが俺っちの望みでもあるんだから……」

 天化は微笑み、名前を見つめた。慈愛の籠った眼差しで。
 それに応え、名前も笑みを唇に乗せる。「それじゃあ、」言いながら、製作途中の薄絹を広げた。

「まずは感想が聞きたいわ。……どうかしら?」

 蝉玉に見せるのはなるたけ完成形がいい。けれど他の人の意見も聞きたくある。
 そう思い、名前は訊ねたのだけれど。

「うーん……」

 天化は名前から布地を受け取ると。
 おもむろに名前の頭上で広げた。
 頬を掠める絹の柔らかな感触。眼前に垂れ下がる薄靄の幕。それを持ち上げ、天化は。

「……うん、よく似合う」

 愛しいと。瞳にも声音にも纏わせて、天化は囁く。それは蜜よりも甘く、甘美で。
 顔に熱が駆け上がっていくのが名前にも自覚できた。

「……私が似合ったってなんの意味もないのですけど、」

 やっとのことで、言えたのはそれだけだった。それも視線は定まらず、目を伏せたままである。
 そんな名前を天化は楽しそうに、嬉しそうに見つめる。そうしながら、燭火に照らされる頬に手を滑らせた。
 唇に触れる温もり。それに慣れる日は来るのだろうか。
 何度目かの口づけにさえ頬を朱に染める名前を、天化はやはり目を細めて微笑むのだった。