雪の女王U
寂雷さんは私の手を引いて瀟洒なお屋敷へと入っていった。
広間には七色の光が射し込んでいた。私はびっくりして顔を上げたのだけれど、そうしても大きな窓は私の頭よりもずっと遠く。けれど色とりどりのガラスが嵌め込んであるのと、それが描くものだけは見えたから、あぁこれが神様の光なのねと思った。
そんな輝きを浴びて、寂雷さんはにっこり微笑む。まるでガラスでできた神様みたいに。
私の手には届かないところにある神様よりもずっと近く。私を掬い上げてくれる寂雷さんの目を見ていると、次第に私が信じている神様は目の前の人だったように思えてくる。
ーーううん、きっとそうだ。
「君の部屋はこっち、」
寂雷さんが連れてきたのはお屋敷の二階。陽当たりの一等いい部屋は私の知らないもので満たされていた。
年代を感じさせるのに傷みはひとつもない調度品。真っ白なシーツの敷かれたベッドは雪よりも柔らかで、窓辺には薔薇の花が活けられていた。
その中を導かれるがまま進み、私はベッドに身を横たえる。
「今日は疲れたろう。ゆっくりおやすみ」
髪を撫でる手。懐かしさすら感じる温もりは、私を眠りへと誘う。穏やかで安らかな世界へと。
だから私は気にも留めなかった。
部屋の鍵がかけられたのを。いつの間にか枕元に聖書が返されているのを。
ーー彼を見つけていないというのに、おかしなくらい心が凪いでいるのにも。
寂雷先生は、私をお姫様のように扱う。
「さぁおいで、名前君」
落ち着いた深みのある声。その声で呼ばれると私の体は人形と化す。
促されるがまま。膝の間に座ると、寂雷先生は黄金色の櫛を取り出した。
「それくらい自分でできるわ」
「あぁ、わかってるよ」
四季の花園。世界中の花を集めたんじゃないかってくらいの花が咲き誇る庭は私のお気に入りの場所。今日もそこで遊んでいた私の髪には木の葉や花弁が絡まっていた。
それをひとつひとつほどきながら。寂雷先生は「でもね、私がこうしたいんだよ」と言った。
その諭すような声音といったら!柔らかであるのに、私から一切の抵抗を奪う声。口を尖らせていたはずなのに、「しようがないかな」って気持ちにさせられてしまう。
「ここの庭園は気に入ったかい?」
「ええ、とっても!特にこのお庭の白薔薇はずっと見ていたって飽きないわ!!」
「そう、よかった」
耳元での囁き。掠める吐息に首を竦めている私に、寂雷先生は言葉を続ける。「あの白薔薇はね、」ーー君のための花なんだよ、と。
「私の?」
「そう、君だけのための」
振り仰いでも。先生がそれ以上を語ることはない。ただ微笑み、櫛梳る。宥めるような手。安息を齎す体温。そのすべてに、私の中の疑問は溶かされていく。
どういうことなのかしら。
確かに最初はそう思っていたはずなのに、最後には思考を放棄していた。なんでもいいわ、と。そんなことより今の方が大切じゃない、と。ーーこの穏やかな今さえあれば、他にはなんにもいらないと、私は思ってしまっていた。
「さぁできた」
「ありがとう先生!」
声を弾ませ立ち上がる。と、ようやく私の目線が先生のそれと重なった。子供の私にとって、大人の先生は首が痛くなるくらい大きかったのだ。
だからそうしてやっと私は先生の表情を真正面から見ることができた。その細められた目を。視線を交わらすことができた。
「可愛い名前、」先生の言葉は魔法の呪文。歌声とその手に導かれ、私は顔を持ち上げる。
「不思議なものだ。子を持ちたいという願望はなかったはずなんだけど……君との日々は思いの外私の心を満たしてくれる」
先生の、青色の瞳。それは空よりも遠い場所、深い海の底の色をしていた。それくらいに手の届かない景色を、その目は見つめていた。
「このままずっと、ここで暮らそう。私と名前、二人だけで」
私の頬を撫でる手。指先に、私の思考は微睡む。
けれど先生の長い髪が幕のように垂れ下がり、私の世界を箱庭にするのを見てーー何故だか頭が痛んだ。
耳鳴り。目眩。ノイズ。私の金の髪と彼の深い色の髪。ふたつが混じり合うのを私は密かに楽しみにしていた。その時だけはみんなとは違うこの髪の色も好きになれたのだ。
そういえば。
ーー“彼”って、誰のことだろう?
「……っ、」
「名前君?」
「、いいえ、いいえ、なんでもないの。大丈夫。少し、頭が痛くなって、」
そう言う声すら遠いのに。耳の奥で響く“彼”の言葉だけはーー『僕は名前の髪の色、きれいだと思うよ』ーーそう言う声だけは、痛いほどに鳴り響いていた。
「……それは心配だね、無理せず休んだ方がいい」
「そんな、そこまでするほどのことじゃないわ」
「ダメだよ、名前君。体は大事にしないと」
有無を言わせぬ語調で言い切られ、しかも終いには抱き上げられてしまえばーー私にはどうすることもできない。
「夕飯の時間には起こすから、それまでしっかり休んでいるんだよ」
「はい……」
結局この日、私は言いつけを守ってベッドに入った。すみれの香りのする、絹のベッドに。
「眠るまで……そうだ、聖書を読んであげよう」
枕元の先生が遠い。その手にある本の表紙すら私には最早ようとして知れなかった。それはきっと私が物心ついた時から持っていたもののはずなのに。ーー先日、川に投げ込んだはずなのに。
「……そういえば、私はどうしてここに来たのかしら」
そこで、ふと。私は疑問を抱いた。
川に投げ込んだ聖書。確かにその記憶はある。けれどそれがどうしてだったかーー理由だけがさっぱり記憶から抜け落ちていた。数ページだけ破り捨てられたみたいに。
「それに私、他にも大切なものがあったはずだわ」
なのに思い出せたない。心は訴えているのに。何も、何一つとして波紋は広がらなかった。
そうやって、眉間に皺を寄せる私に。
「どうだろう?君の持ち物は全部仕舞ってあるはずだけど」
先生は小首を傾げた。さっぱり心当たりなどない。そういった風に。
先生は。私の持ち物はこの聖書と後はコートくらいなものだと言った。
ーーそれが嘘であるはずもなく。
「じゃあ気のせいだったのかしら……」
「そうだよ、きっとね」
心には未だ引っ掛かりがある。忘れていること。思い出さねばならないこと。それはきっと存在しているはずなのだ。
けれど今の私にそれを探す力はなかった。抗う術も。
「おやすみ、名前君」
だから私は静かに瞼を下ろした。その声に誘われて。導かれるがまま、意識を手放した。