スコッチと心中する

 スコッチが観葉植物を買ってきた。それは昨夜観た映画と同じものだった。

「つい、な」

 そう言って頭を掻く彼に名前は呆れた。

「そんな理由で買い物してたらいつか文無しになっちゃう」

「そしたら名前に養ってもらおうかな」

 俺って専業主夫も結構似合うんじゃないか。なんて言ってスコッチはモデルみたいなポーズをとった。「どうだ」そう言われても。

「ご飯も作れない人が主夫になれるわけないでしょう」

 二人の間にはデリバリーのピザがあるのだから。
 鉢植えの世話は名前に任された。よろしくと頼まれれば名前には断れない。水をやるために毎日スコッチの家へ足を運んだ。しかし名前にも仕事がある。そういうときは飼い主が代わりをしていたのだが、そのうちそれもなくなった。スコッチが「なら名前もここに住めばいい」と言ったからである。

「自慢じゃないけど、俺、こういうのヘタなんだよなぁ」

 枯らしそう。その言葉で居を移すことが決定した。日に2度の水やりだけでなく適度な日光浴や虫の駆除を行ううちに名前にも愛着が湧いていたのだった。とはいっても組織から与えられた部屋を勝手に引き払うわけにもいかず。名前の家は倉庫代わりに使うことになった。そうしてスコッチのいるのかいらないのかよく分からない私物は名前の家に押し込められた。
 こうして二人暮らしが始まった。
 直に名前は料理を覚えた。スコッチの偏った食生活が気になるようになったからだ。「名前だって人のこと言えないだろ」彼はそう言ったけれど。その口許についたケチャップを拭ってやってながら、名前は反論した。

「それとこれとは話が違うの」

 自分の体にはとんと興味がなくとも、スコッチの体となれば話は別だ。彼に病気は似合わない。スコッチには元気でいてほしい。そう話すと、彼は虚をつかれた顔をした。それから相好を崩して名前の両頬を引っ張った。

「にゃにするの」

 名前は顔をしかめた。なのにスコッチは笑っている。「かわいいこと言いやがって」このこの。などと言いながらいじり倒してくる。そうやって無邪気な子どものように笑う彼の方がずっとかわいいのに。名前はそう思ったけれど、以前かわいいと言ったら拗ねられたのを思い出して黙っておいた。
 スコッチとの生活は素晴らしいものだった。彼は名前に生を教えてくれた。彼のいない人生などもはや考えられなかった。
 件の鉢植えは今も窓辺に置かれている。月の光を浴びるそれが名前には輝いて見えた。窓の向こうには夜の街が広がっていた。明かりの漏れる建物とその間を走る車たち。そのいずれもに人生があるのだと思うと不思議な気持ちにさせられる。月はその上にかかっていた。真っ白な月は何もかもを暴きたてていた。そこには1つの例外もない。もう、1つも。

「なにを考えているんだ?」

 スコッチは言った。彼は二人掛けのソファに座っていた。それを買いに行った日のことを思い出しながら名前は答えた。

「憂鬱な仕事のこと」

 その通達はベルモットによって行われた。「あなたの手で始末をつけなさい」彼女はそう言った。その時名前はどんな顔をしていただろう。多くのことが名前から失われた。名前に分かるのは2つ並んだ靴や歯ブラシや枕なんかのことだけだった。
 スコッチは悲しそうな顔をしていた。「そうか」諒解と諦念。2つの入り交じった声。そうか。たったそれだけなのに、名前は泣きたくなった。

「泣くなよ」

 彼は自分が与えた名前を呼ぶ。名前。それは名前にとって最も神聖で尊いものだった。
 名前は駆け寄った。「スコッチ、」駆け寄って、跪いて、彼の手をとった。でもそれ以上はできなかった。それ以上、何をしたらいいのか分からなかった。
 「なぁ、踊らないか」不意に彼はレコードをかけた。どこかのガレージセールで買った蓄音機から流れ出すシューベルトのワルツ。華やかな3拍子。「踊ろう、名前」名前は手をとられ、立ち上がった。

「踊れるの」

 いぶかしむと、彼は笑った。「いいや、まったく」そんな機会なかったからなぁ。そう言って、スコッチは名前の腰に手を回した。「こんな感じ?」それは合っているけれど。「ステップが全然違う」彼のはただくるくる回るだけで、リードも何もあったものじゃない。そもそもステップ以前に手の握り方だって違う。「こう」名前は手を握り直した。「でも力を入れすぎちゃダメ」二人の親指を立てて、チャンピオングリップに直す。

「名前は踊ったことあるんだな」

「好きで習ったわけじゃないけど」

 名前の持っているものは仕事上必要とされたものだけ。それ以外はスコッチが与えてくれたものしか持っていない。名前も、命も。
 「でもすごいよ」彼は感嘆した。「俺は教えられてもできない」そうやって真っ直ぐに称賛するのは彼の悪いところだ。
 名前は目を逸らした。

「……私がリードするから」

 名前は手を引いた。音を聴き、体を滑り込ませる。
 まずは右足を下げてのナチュラルターン。名前の動きにつられてスコッチは左足を出した。

「音楽をよく聴いて、音楽と相手に呼吸を合わせるの」

 名前はスコッチを見つめた。彼も名前を見つめた。そうして二人はくるくる回った。
 不格好なステップを踏み、髪を靡かせ。くるくるくるくる。視界には彼の顔だけがあって。その目にも名前だけがあって。そうしていると世界に二人きりのような錯覚を覚えた。そうであったらいいのにと頭の片隅で思った。
 スコッチのアパートメントにはほとんどものがなくなっていたから踊るのにはちょうどよかった。「でもみんなには迷惑でしょうね」特に階下の人間には。大きくターンしてから、名前は思い出した。他の住人の存在を。でも踊るのをやめたくはなかった。やめたらそれが最後だと分かっていた。

「いいさ、気にする必要なんてない」

 スコッチはぐいっと名前の腰を引いた。「だんだん掴めてきたぞ」彼は声を上げて笑った。「楽しいな、名前」名前も表情を緩めた。「ええ」彼の体にぴたりと寄せる。そうすると体全体で彼を感じられた。生の感触。首筋を撫でる呼吸すらいとおしい。
 でも物事には終わりがくる。名前にも、スコッチにも。音楽が止んだ。レコードは終わった。

「踊りましょう」

 名前はねだった。彼の背に手を回した。「ワルツが飽きたならメヌエットでもいいから」なんだって、彼となら楽しかった。朝の目覚めもなんでもない食事も夜の眠りも。何もかもが幸福で満ちていた。
 なのにスコッチは頷かなかった。彼は首を振った。「無理だよ、名前」いつかは終わりがくるんだ。彼は名前の手をほどいた。

「分かってるだろう、もう俺はここにはいられない」

 レコードとソファとテーブルと鉢植えと。そんなものしかない部屋で、それ以外のあらゆるものが片づけられた部屋で、彼は寂しく微笑んだ。今日、多くのものを捨ててきた彼は、その命すら捨て去ろうとしていた。
 名前は彼の腕を掴んだ。「いやよ、絶対、いや」すがりついて懇願した。「逃げましょう、わたし、なんだってするから」そんな望みすら彼は打ち砕く。

「ダメだ、名前」

 彼の黒い目からは強い決意が見てとれた。見えてしまった。だからどう言っても彼が逃げてはくれないのだと理解した。
 名前は項垂れた。ゆるゆると首を振り、手で顔を覆った。

「私の一番はあなたなのに、あなたは自分より別のものを守るのね」

「……すまない」

 スコッチは名前を抱き寄せた。「すまない……っ」謝ってほしいわけじゃない。そんなのより自分を大切にしてほしい。言いたいのに、言葉は嗚咽になる。
 名前は彼の胸に顔を埋めて泣いた。どうしてこんなことになってしまったんだろうと思った。どうして、

「私が殺さなきゃならないの……っ」

 最もいとおしいものも最も尊いものも、名前のその手で壊さなければならないなんて。神の与える罰はあまりに残酷だった。裏切り者を始末しろ、だなんて。彼を殺して名前が生きるなんて。
 そんなことをするくらいなら、いっそ。

「私を殺して」

 零れた言葉は無意識だった。口に出してから驚いた。でもすぐに馴染んだ。あるべきものを見つけたような感覚だった。
 名前はスコッチを見上げた。見つめて、はっきりとした語調で、希う。

「私は、あなたに殺されたい」

「名前……」

 スコッチは逃げない。絶対に死を選ぶ。その後の世界で名前が名前を捨てて生きていくくらいなら、彼と共に落ちてしまいたかった。

「あなたとなら、地獄だって幸せよ」

 月が煌々と照っている。あらゆるものを暴きたて、詳らかにする。スコッチの苦しそうな顔すらも。「……本当に?」頷くと、彼は長い息を吐いた。「そんなことしかしてやれない俺が憎いよ」ぐにゃりと歪んだ顔。その頬に手をやった。

「そんな顔しないで。きっとどうあっても私はこうなっていたから」

「名前……」

「"Every Night & every Morn Some to Misery are Born……"」

 名前はうたった。うたってから、わらった。「私は"終わりなき夜"から逃げられないの」どれだけ太陽に焦がれても、世界を望んでも。名前の手には届かない。
 スコッチはやっぱり泣きそうな顔をしていた。赤くなった目で名前と同じように頬を包んだ。

「……俺は、幸せとよろこびのあるところに連れていきたかったよ」

 彼は唇を落とした。それは月の味がした。寂しさと諦めと、ほんの少しのよろこびがあった。

「どこまでだって一緒だ」

 スコッチの腕の中。彼の肩越しに名前は鉢植えを見た。それはいつの間にか茶色くなっていた。





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ウィリアム・ブレイク『無垢の予兆』より。