春の憧れV
ーー溜め息を吐くと幸福が逃げるというなら、俺にはもうこれっぽっちもそんなもの残っちゃいないだろう。
そんなことをぼんやりと思いながら独歩は夜空を見上げる。
太古の昔、人々が紡いだ神話の世界。空に編まれた星座たちを見て、次に独歩はこう思う。呑気なものだな、と。
そんなことを考える暇があるなんて羨ましい。自分には余暇なんてちっともないというのに。
「これも全てハゲ課長のせいだ……」
結局のところ。行き着く先は決まってる。
恨み言を溢し、独歩が駅を出ようとしたその時。
「……観音坂さん?」
ーー声がした。他でもない、自分を呼ぶ。秋風のように涼やかで、花のように甘やかな。
そんな少女の声に、独歩は一も二もなく振り返った。思考する暇もなく、反射的に。声の主へと視線は走った。
「名前、」
名を呼ぶと、少女は「あぁ、よかった」と相好を崩した。本当に、心から嬉しそうに。瞳を色づかせ、独歩の元へと駆け寄った。
「違っていたらどうしようかと。でも声をかけて正解でした。こんな時間に会えるなんて」
息を弾ます少女。その頬に紅葉が散っているのは駆けてきたせいだろうか。ーーそうではないといいと願ってしまうのは、悪いことなのだろうか。
独歩が勘違いしてしまいそうなほど、名前の目は輝いていた。
だから独歩は咄嗟に口ごもる。喉元で塞き止められた言葉は、「そうか」という愛想のないものへと変換されてしまった。そうか、なんて。もっと気の利いたセリフがあったろうに!
そう、己を責める独歩であったけれど。
「あの、途中までご一緒してもいいですか?」
「あ、あぁ……」
問われ、考える間もなく体は勝手に動いていた。世間体とか、そういうものを置き去りにして。
頷いた後で、「危ないし、送ってく」と言い訳のように急いで付け足していた。
「……なんだか催促したみたいで申し訳ないです」
しかし名前はといえば一転、顔を曇らせていた。言葉通り、その目は輝きを失っている。このままでは固辞するのではというくらいに。
そこに思い至り、独歩は慌てた。
「いや!気にしないでくれ」
言ってから、それだけでは足りないなと頭の片隅で思う。
「それに……そう!ちょうど寄り道したい気分で……ほら、秋の夜長を味わおうかと……」
思ったから、独歩は嘘を吐いていた。気づいた時には既に。自分でも驚くほどの必死さでもって彼女を引き留めていた。誰が聞いたってわかる、明らかな嘘で。
言いながら、さすがにこの言い訳は通用しないだろうと気づいた。けれど後には退けない。
最後の方は消え入りそうな声で言い終え、そうして独歩は目を逸らした。内心、頭を抱えて。
ーーこれはまずい。
こんなあからさまな下心、通報されないわけがない。どこからどう見たって異様だ。今すぐ不審者情報として喧伝されそうなくらいには怪しい。
終わったな、と。独歩は審判を待つ罪人の心持ちで判決を待った。まぁ一時でも夢を見ることができたのだから悪いことばかりではなかった。
そう過去を振り返ったところで。
「……ふふっ、」
堪えきれない、といった風に。名前は笑みを溢した。臈たけた目元を緩めて。彼女は微笑み、それから悪戯っぽい光を瞳に宿した。
「それじゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」
目を奪われる。沫雪のような微笑に。
奪われ、そして息を呑んだ独歩には溜め息のような返事しかできない。
けれどそれだけでは不十分だと気づき、「任せろ」と意気込んだ。そうしてからそれも不適切だと頭を抱えたのだけれど。
「そういえば、こんな時間まで何してたんだ?」
駅からの帰り道。肩を並べながら、ふと。独歩はずっと気になっていたことを訊ねた。
あまり踏み入ったことは聞くべきでない。そう悩みながら、けれど何かあったのでは、と。思えば訊ねないわけにはいかなかった。何より彼女のことであるから、見過ごすという選択肢はなかったのだ。
そう思いながらの問いであったから、さぞや心配そうな顔をしていたのであろう。名前は驚いたように目を瞬かせた。
そうしてから、「あぁ、」とようやく気がついたという感じで息を吐き、首を振った。
「いいえ、大した理由じゃないんです。ただ少し……家には帰りたくなかったから」
なんでもないと。なんてことはないと。そう名前は言った。言ったけれど、それを聞かされた独歩の胸は激しく波立った。
ーー大したことないだって?
そんなわけがないじゃないか、と独歩は思う。彼女のその思いが一過性のものではないと独歩は知っている。察してしまっている。彼女が生に拘泥していないことを。死に惹かれてしまっていることを。
「それなら、うちに来ればいい」
知ってしまっているから、言わずにはおれなかった。考えるよりも先に。ずっと早く。口にしてから、自分の言った言葉の意味に気づく。
「えっと、決して変な意味ではなく!いや、変なっていうのはその、だから……」
狼狽える視線、声。墓穴を掘っている。そう自覚しているのに、うまい言葉が見当たらない。名前の見開かれた目を見れば見るほど。その瞳に映る自分が滑稽なまでであるのを思い知らされるほど。
ひとり動揺する独歩に、けれど名前は困ったように眉尻を下げた。「でも、」と。躊躇いがちに、彼女は口を開いた。
「観音坂さんのご友人に迷惑をかけるわけにはいかないわ」
ご友人。迷惑。その二言で、彼女の言いたいことがわかる。
「あぁ……、」ーー彼女が言いたいのは一二三のことだ。独歩の幼馴染みであり、女性恐怖症である彼のことだ。
「あいつのことなら……夜は仕事に行ってるし、鉢合わせしなければ、」
「……それはとても難しいことだと思うわ」
名前は笑う。諦めたように。大人びた目つきで、寂しげに微笑んだ。
「私と彼、どちらも救うことなんてできない。例えそれがあなたでも。……物語ってそういうものでしょう?」
そしてそれは、独歩の胸を嫌にざわつかせた。
襲う既視感。この表情を見た記憶がある。ーーどこで?……わからない、けれど。それでも確かに覚えている。覚えていなければならない。忘れてはならない。ーー忘れたくはない、記憶があった。
だから。
「……っ、」
独歩は手を伸ばした。いつかと同じように。迷うことなく名前の手を掴んだ。
「観音坂さん……?」
戸惑いに満ちた声。呆然とした顔。落ち着き払っていたのが嘘のように、名前は感情を露にした。
その瞳の奥。独歩を見上げる目に沈んでいるのはーー紛れもない喜び。隠しきれない歓喜の色。そう、独歩には感じられた。
勘違いかもしれない。都合のいい思い込みなのかも。
だとしてもーー独歩は、
「俺は、どっちも手離したくない。一二三も、お前も」
名前の手を握ったまま、宣言する。
思い上がりも甚だしい。救われているのは独歩の方なのに。
そう考える一方で、けれどもし、と思う。
もしも、これが彼女にとって救いとなるのなら。後から後悔するとしても、己の存在を肯定したかった。そう。今だけは。
こうすべきだと、本能的に思った。
そして、名前は。
「……お人好し」
バカね、とでも言うみたいに。呆れた風に、それでも心底嬉しいと仄かに目許を染めて。名前は花が綻ぶように笑った。
その姿を例えるならーーそう、
「あなたはさしずめ勇者ペルセウスといったところかしら」
名前は空を指差し囁く。星躔の中、先刻独歩が羨んだ人々のように。星座を指先で紡ぎ、微笑んだ。
「いやいいとこパーンだろ……」
「それなら私はシュリンクスにならないと」
ニンフよりも透き通った容貌を色づかせて。澄みきった声に明かりを灯して。囀ずる名前に反論しかけてーー独歩は頬を緩めた。
言う必要のないことだ。だってきっと彼女ならーーこの手を振りほどくことなどしないだろうから。