春の憧れW


 伊弉冉一二三にとって、観音坂独歩は無二の親友である。だから彼に大切な女の子ができたのを誰よりも祝福した。相手が学生であるということに引け目を感じる張本人よりも。いや、それ故にこそ一二三は自分が認めてやらねばと思ったのだ。
 しかし悲しいかな。一二三は女性という存在がことごとく苦手である。会話などもってのほか。目を合わせることすら普段はままならない。それは最早病気の類いで、今の仕事を続けていられるのは奇跡に近い。

「一二三、彼女……名前にここの合鍵を渡したいんだが……いいか?」

 それを知っているから、独歩はこんな風にお伺いをたてる。
 一二三を気遣う眼差し。それにいつだって救われてきたけれど、一二三とて今回ばかりは彼に頼ってはいられないと腹を括る。

「お前のことは彼女もわかってるから気をつけてくれると思うけど、もしお前が嫌なら、」

「なに言ってんだよ独歩!そんなん俺っちに聞くことじゃないっしょ〜!独歩の好きにすればいいって」

 だから一二三は一抹の不安を抱きつつも殊更に明るく振る舞った。もうお互い子供じゃない。親友だからって独歩に寄りかかり続けてはいけないのだ。そう、一二三は覚悟を決めた。
 ……のだけれど。

「なんつーか……肩透かしってカンジ?」

 気を張っていたのがバカみたいに、一二三が件の彼女ーー名前と遭遇することはなかった。
 一二三が仕事に出ている間に訪れて、帰宅する時間にはもう家を出ている。見事な擦れ違い。計ったかのように彼女は一二三を避け続けるものだから、本当に合鍵を使っているのかと疑問に思うこともしばしば。
 この家に滞在したという痕跡すらも消し去って、そうまでして独歩の家に来る理由とはなんだろうか。まったく寛げていないだろうに、と一二三は思うのだけれど。

「それで十分なんだろ」

「そういうもんかなぁ……」

 訳知り顔の独歩に、一二三は首を捻るものだった。
 しかしそれから一月が過ぎ、本格的な冬が始まる頃。

「お?」

 しんと静まり返った自宅。独歩も既に眠りに就いたらしく、明かりは一二三がたった今つけたリビングのものしかない。他はすべて宵闇に沈んでいる。
 けれど一二三は見つけてしまった。テーブルに広げたままの雑誌や新聞紙、その間に見慣れぬノートの切れ端が挟まっているのを。見つけ、好奇心からそこに書かれた文字を辿っていった。

「ピッピロッタ・チュウオウコウエン・マンインデンシャ・カタリエルセカイ・ネムラナイマチ・オオカミノムレ……?」

 一見するとなんの関連性もない単語たち。カタカナで綴られたそれは一拍置いて考え込まなければ何を指しているのかわからない。中央公園、満員電車、……しかし漢字に変換したところで一二三には意味のある言葉だとは思えなかった。

「うーん……?」

 そして次に一二三の関心を引いたのはその文字列の書きぶりである。
 書道の教科書みたいな筆致。流れるような、それでいて生真面目な筆遣いは一二三の記憶にはないものだった。だから独歩が書いたものではない。もちろん、一二三のでも。
 となると一人しか思い浮かばないが……。

「んんー……?」

 それはそれで想像と結びつかない。
 独歩から伝え聞いた話。名前。女子高生。女の子らしい女の子。断片的な情報から思い描いていた少女と、今目の前にある生真面目な筆跡。
 ……やっぱり、繋がらない。
 一二三は難しい顔のままソファに座り込んだ。はてさて、どうしたものか。
 別に一二三が何かをする必要はない。これはきっと忘れ物。珍しいけれど、それだけだ。一二三が見なかったことにすれば明日には消えてなくなるだろう。だから、何をする必要もない。
 ないの、だけれど。

「やっぱ気になるのがフツーだよなぁ」

 会ったこともない少女。けれど彼女は独歩の大切な人で。だから一二三にも関心はあって。
 それが女性であることに躊躇いはあるが、それでも、と一二三は覚悟を決めてペンを取る。
 ーー文通くらいなら、自分にだって。

『これ、どういう意味?』

 そうして一二三は震える手で文字を綴ったのだった。
 返事が来たのは翌日。やはりメモ用紙は一二三の買った雑誌の間に挟まっていた。
 ここまでは予定通り。好奇心に沸き立ちながら、紙面に目を落とした一二三ではあったのだけれど。

『恋文です。私から観音坂さんへの』

 その返事は想像とはかけ離れたものだった。
 相変わらずの流麗な筆致。そこには躊躇いなど欠片もない。だからこそ一二三は首を傾げる。恋文……ラブレターとは果たしてこのようなものであったか、と。

「ラブレターっていうか暗号?」

 一二三はラブレターがどんなものかよく知っている。それはもう目に入るのも嫌になるくらい。
 そりゃあ十人十色。人によって選ぶ言葉は違ったし、熱の色合いだって異なっていた。けれどそのどこにもこんな謎めいた文句は書かれていなかった。

「かといってもっかい訊くのもなぁ……」

 それはそれで面白くない。投げられた謎かけ。どうせなら自力で解いてみたいものである。
 と、一度は奮起した一二三であったけれど、それで問題が解けるかといえばまた別の問題。

「わっかんねぇ……」

 一週間。それだけの時間が経っても未だ答えは得られず。
 帰宅した後も頭を悩ましていたのだが、わからないものはわからない。
 ーーどこかにヒントなんぞ書かれてやしないだろうか?
 そう、ためつすがめつメモ用紙を眺める一二三に。

「……なにしてんだ」

「あ、独歩」

 背後から声をかけたのは同居人の独歩だ。どうやら彼の浅い眠りは一二三が身動ぐだけで阻まれてしまうらしい。
 お手本のような仏頂面。寝起きの独歩は基本的に機嫌が悪い。だからこの時も彼の声は低く地を這っているが、それももう一二三には慣れたものだから全く気にならない。

「なぁ独歩ぉ〜、これどーゆー意味かわかる?」

「はぁ?」

 哀れっぽく鳴くと、独歩は訝しげに片眉を持ち上げる。相変わらずの顰めっ面。けれど彼の根っこは優しさでできているから、「なんの話だよ」と一二三の指差す場所を素直に覗き込む。

「これこれ!独歩のカノジョんのなんだろーけど、俺っちにはちょっと難解すぎ?っていうか〜」

「いやだからまだそういうんじゃ……、あぁ、もういいや……」

 何事か否定しようとして、けれど独歩は溜め息を吐く。溢れるは諦念。それを振り払い、独歩は一二三の指先に目を落とす。正確には、そこに綴られた文字を。
 一瞥して、それだけで。

「……あぁ、」

「えっ、もうわかっちゃったワケ!?」

 なんてことはない。そんな風で独歩は頷く。むしろわからない方がおかしいとでも言いたげに。視線を返され、一二三は思わずたじろいだ。

「なぁんで独歩にはすぐわかんの!?愛の力ってヤツ!!?」

「いやそんなんじゃなくて……」

 今度は独歩が指し示す。ノートの上、踊る文字。そのひとつを選んで、笑う。

「ここ、“ピッピロッタ”ってあるだろ?」

「あるけど……?」

「……もしかしてお前、『長くつ下のピッピ』知らないのか」

 なおも疑問符を浮かべる一二三に、独歩は呆れた風。「図書室にあっただろ、小学校の時とか」そこまでヒントを与えられても、一二三の記憶にはちっとも響かない。図書室、なんて……当時も今も、一二三には縁のない場所だ。

「そんなんあったかぁ?」

「あったよ、少なくとも俺は朝読書の時間に読んだことある」

「よく覚えてんね」

「お前は覚えてなさすぎだ」

 そういう独歩は昔から一二三にはよくわからない類いの本を読んでいた。その種類も多岐に渡って、いったい独歩は何になるつもりなのかと不思議に思ったものだ。まさかこの歳まで一緒にいるとまでは考えちゃいなかったが。それでも独歩と共に歩む明日はこれから先もずっと続いていくのだと、ただ漠然と思い描いていた。

「なんだよ、いきなりニヤニヤして」

「え〜!ニコニコって言うとこだろここはぁ」

「そんな歳じゃないだろ、お前」

 そうは言うが、心優しい独歩は辛抱強く一二三に付き合ってくれる。『長くつ下のピッピ』とやらを知らない一二三のために。それがどんな話かを語って聞かせた。
 破天荒な女の子、ピッピに振り回される世界。けれど彼女はその力で時として人助けを行うーーらしい。

「そのピッピの本名がこんな感じにデタラメなんだ。だからたぶん名前はピッピを真似て……自分ならどんな名前をつけるか考えてたんだろ」

「へえ……」

 独歩はさらりと言うが、一二三にはいまいち理解できなかった。本を読んで、だからってそのキャラクターに自身をなぞらえるものだろうか。少なくとも一二三には経験がない。漫画みたいな大冒険に憧れはしても、それだけだ。夢は夢。空想はしても浸ることはない。
 と言うと、独歩は微妙な顔をした。

「それだけ現実に満足してるってことだろ……」

 いいよな、一二三は。それなのに俺ときたら……と独歩を苛むはいつもの癖。こいつはいけない。特に夜中に襲い来る闇というのは難敵だ。

「そ、それよかこれ!これがどうしてラブレターになんのか教えてよ!」

 慌てて一二三は独歩を引き上げる。耳元で叫ばれ、肩を叩かれ。そうしてやっと独歩は一二三に虚ろな目を向けた。

「ラブレター?」

「そ!カノジョ曰く、こいつは独歩へのラブレターなんだって」

 なんの話だと胡乱げに見られても困る。わけがわからないのは一二三の方だ。この妙な単語の羅列が空想上の産物だとしても、問題は解決していない。これがどうしてラブレターになるのか。解き明かすべき問題はまだ提示されているのだ。

「どう?どう?わかった?」

 考え込む仕草の独歩。その口が開くのを一二三は今か今かと待ち構える。解決手段としては些か卑怯な手。とはいえもう一週間も経っているのだ。時効。時間切れ。ということで、解説役を呼んだって構いやしないだろう。
 そう、一二三はわくわくと急き立てたのだけれど。

「……って、アレ?おーい、独歩さーん?」

 突然。何かに気づいたように見開かれる目。強張る表情。……仄かに色づく頬。
 一二三の呼び掛けに独歩は無言を貫く。というより、聞こえていない、らしい。とにかく彼の意識は手元に集中しすぎていて、他のことなんてどこか遠くの出来事になってしまっている。
 そしてそのままに独歩は立ち去ろうとするものだから、ここで慌てたのは一二三だ。

「ちょ、ちょっと!俺っちにも答え教えてよ〜!」

「……いやだ」

 にべもない返事。追い縋る一二三を置き去りにして、独歩は自室へと帰っていく。これはもう手の打ちようがない。こうなったら独歩は絶対に口を割らないだろう。

「……ケチ」

 一人取り残され。拗ねた一二三の声がリビングに落ちる。結局答えは得られぬまま。宙ぶらりんに放り出されてしまった。座りが悪いったらありゃしない。
 けれどまぁいいか、と思い直す。これでよかったのだ、本当のところは。……彼女も独歩を大切に思っている。一番知りたかったことは知れた。だから、今回は見逃してやろう。

「根掘り葉掘り聞くのはまたの機会ってことで……」

 一二三は満足げに笑いながらリビングの明かりを消した。
 今度は……そう、前よりも歩み寄ってみよう。遠回しに、じゃなく。はっきりと伝えてみせよう。
 ーー俺っちの大親友をよろしく頼むぜ、ってな。